傾国

削るための逢瀬

 一週間に一度、枢木スザクの就寝前の半時間は、上官の爪研ぎに費やされる。
 執務机の対面に無理やり置かれた椅子に座り、向かいから伸ばされた手をとる。細くて長くて、軽い指を、順に見て、同じ形が並んでいるそれぞれに、丁寧にやすりをかける。淡い色が滲む爪は、明かりを細く落とした部屋の中で、ことさらに白く浮いた。その爪を一枚一枚剥がして悲鳴を上げさせてやりたい気持ちを、スザクはいつも抑え込む。
 人差し指が終わり、上官はその仕上がりを薄明かりに矯めつ眇めつして、一応の満足を得たのか、もう一度手を差し出した。スザクはそれをとり、中指にも同じ作業を施す。
「今日の夕飯は、なんだったんだ」
 彼はいつもくだらない話を促し、スザクは渋々、つまらない日々の出来事を語る。
 規律正しい軍の生活では、特別なエピソードもない。淡々とした時間の中、スザクがこぼした言にふと反応して、上官は俯いたスザクのつむじに声を落とした。
「…ばかだな、おまえは」
 スザクが先日、東京のゲットーでの戦闘の最中に、巻き込まれたイレヴンの母子を助けたという話をしたところだった。その母子は、スザクが保護して連れ帰ったところで、その場の責任者だった中隊長に興味の薄い目で眺められてから、悲鳴を上げる間もなく射殺された。死体はスザクが、部隊が撤収した後にゲットーを再訪して、土に埋めた。
 上官の言葉は、どこか穏やかな響きで、まるで聞き分けのない子供をなだめる父親のようだったので、スザクは顔をしかめる。
「…あなたなら、どうしましたか?」
 その問いに対する返事は、先ほどの暖かい音を出したのと同じ人物とは思えない、冷え切ったものだった。
「助けたところで、どうしようもないだろう。勝手に逃げさせればいい。軍などに保護しても、人間扱いせずに殺されるのは、目に見えている」
「でも、あそこを二人で逃げても助からなかった! …そんなのは、もっと間違っている」
 助けなかった場合と比べて、一度は助けられたという事実は残ったのだと、苦しいのを承知で言い返すと、上官は目を細めた。
「おまえが軍に連れて行っても、行かなくても、死んでいた。そういうことだろう」
「…そんな言い方は」
「人には、結果がすべてだ。…結果を伴わなければ、何が変わるものか」
 そう言うと、不意に彼は、スザクの腕の中から手を引いた。爪の上には削られた残骸が乗ったままだ。空気にすうっと白い粉が舞い、机の上に散らばる。彼の一部のなれの果て。それを、薄い唇がとがり、柔らかく吹いて拡散させた。
 その息で笑われた気がして、スザクは眉を寄せる。
「世界に、結果なんてありません。僕らはいつだって、考え続けなきゃいけなくて、大事なのは、その、考えたっていうことです。経過が人を変えていくんだから。それが、進化ってものでしょう」
「経過は、すべてが何かの結果だ」
「屁理屈です」
 吐き捨てると、彼は憤るスザクの目の前で手のひらを閃かせ、再び作業を開始するよう、無言のうちに申しつける。歯がみしながらその手を取り、スザクは再び、やすりを彼の爪に当てる。それと同時に、上官は口を開いた。
「おまえのもな」
 わざわざ逆撫でするようなタイミングを見計らう彼に、スザクはやすりを彼の爪から外し、声を荒げた。
「…ランペルージ少佐!」
「枢木。おぼえておけよ」
 彼はいつも、違和感をおぼえさせるほど正しく、スザクの姓を発音する。スザクがそれを聞くと、やるせない思いに浸されることを知っているかのようだ。
 黒く濃い睫がゆっくりと上下し、紫の瞳を煙らせる。
「世界はもう、壊さなければ、つくりだせない」
「またその話ですか」
 世界を壊す、そう彼は言う。スザクに言わせれば、それはただの、人生に飽いたものの破壊衝動だ。
「壊すんじゃなくて、変えればいいんです」
「変わらないさ」
 つまらなそうに言いながら、彼はやすりが動くのを見つめている。それが、自分の爪を見ているのか、スザクの手を見ているのかは、判然としない。
 何か考えてのことでなく、ただ、どうにか反論をしなくてはならないという気持ちになって、スザクは言葉を絞り出した。
「それで、じゃああなたは何を壊せたというんです。近ごろは昇進も打ち止めで、職権乱用をして、僕に若い燕みたいな真似をさせて。それで満足なんですか?」
「つばめ、…えらくまた、古い言葉を使うんだな」
 彼は顔をしかめ、それから、呆れたように眉を上げた。
「別に、昇進が打ち止めになったわけじゃない。無能な貴族が、指揮権を渡したくないとごねているんだ」
「そうですか。僕には確かめようのないことですから」
 後半の言葉に答えを返されなかったことに安堵しながら、スザクは彼の左手を机上に丁寧に置いた。手のひらを上に向けて差し出すと、少し戸惑ってから、右手が重ねられた。男にしては柔らかい肌は、少しだけ汗ばんで冷たい。
「僕は甘いですから、追求はしません」
「事実だ」
 眉を寄せ、それから、少し心配げに付け加える。
「…おまえの考え方は、甘いが、…俺は嫌いではない」
「でも、不愉快になるんでしょう。お聞きにならなければよろしいのに」
 見当違いでも精一杯に歩み寄ったのだろう彼に、意地の悪い言い方をしている自覚はあった。
 上官は数秒黙り込み、それから鋭い声を出した。
「――うるさい。おまえに反論する権限はない、黙って俺に従え」
「Yes, your highness.」
 そう応じると、整った顔は、ますます歪んだ。
 意趣返しに成功して、気分がいいはずなのに、その表情を見ると、罪悪感が込み上げる。だからこの人が嫌いなのだと、スザクは思う。いつだって加害者のくせに、被害者面をして同情を買おうとするのだ。
 一度息をついて、それから、上官は嫣然たる笑みを浮かべた。その女王めいたうつくしさは、彼の実母、不遇の庶出の皇妃を思い起こさせる。
「…継承権も剥奪されて久しい皇子に、よく言えたものだな」
「あなたが僕に強いたことでしょう?」
 自嘲する響きに、スザクは思わず、彼の、一回り小さな小指の爪を捻った。肉にまで衝撃が伝わったか、ぴく、と指先が痙攣した。伸びた爪の先端だけが、不透明に白く染まり、嫌な手応えを残して千切れる。スザクはそれを、言葉とともに床に捨てた。
「あなたはいつだって、僕を好きにできると思っているんだ」
「……」
「あのときだって、そうだったんでしょう」
 自分が、おかしなことを口走っている自覚はあった。あの夜のことを、このように軽々しく話題にするべきではない。わかっていながら、スザクは舌を止められなかった。
「…違う。そんなことは」
 彼が口ごもる。目をそらすと、途端にその瞳は力を失う。濃色が不安げに揺らめいた。
 しかし、すぐにそれは、強さを取り戻した。上官は、視線から温度をなくし、スザクを見つめる。
「…全部、俺のせいか? 俺はきちんと同意を求めた。おまえはそれに乗った。そうだろう?」
「あなたは僕の上官だ」
 スザクは冷酷に指摘する。彼が思わずといった風に、唇を噛む。
 尉官に、直属ではないが系統を同じくする佐官の命を、断れるわけがない。それを見越したはじめの彼の呼び出しは、間違いなく越権行為だった。しかも、呼び出されたのは執務室ではなく、寝室だ。
 寝室。その単語に、乱れたシーツと、その上に投げ出された身体の隅々までを思い出して、スザクは頭を打ち振った。ふらりと揺れた髪の動きに、彼の動きが、一度止まるのがわかった。
「…終わりました」
 段のできた小指は放置して、スザクは立ち上がった。もうその出来を見ようとはせず、上官は小さく頷く。
「…ご苦労」
「いいえ。では、失礼します」
 固く一礼し、相対する顔を一顧だにせず踵を返すと、スザクは扉を開ける。背後で起きる固い衣擦れの音を、意識しないようにした。それを聞き取ってしまえば、また戻れなくなってしまうと思った。
 扉が閉まりきる前、小さな呟きが耳に届いた。
「…そんなつもりじゃなかった」
 スザクは音が口内にとどまるように舌打ちして、静かに隙間を埋めた。
 薄暗い部屋から出たところにあったのは薄暗い廊下で、鬱々とした気分はさらに下降する。電灯はレトロな白熱灯で、ぼやけた黄色い光が、瞼の奥に焼ける。彼の部屋にあったのも、同じ明かりだった。
 あの夜、自分を誘い込んだのは彼だった。
 いきなりの呼び出しを受けたのがはじめだった。その怜悧に整った容貌と、容赦のない戦術と、不確かな三つの噂で、彼は有名だった。色で愛でられて年齢に不釣り合いな地位を得たということ。女性の誘いはすべて断るということ。そして、皇帝に廃嫡された庶子であるということ。
 おまえのことを気にしているようだと、同僚たちにさりげなく注意を受けていたから、その日がついに来たのだろうと、スザクは覚悟を決めて彼の部屋を訪れたのだ。嫌なことは、さっさと終わらせてしまおうと考えて。
 出迎えた彼は、寝台の脇の壁にもたれかかっていた。少し緊張しているようだった。サイドテーブルにワイングラスが伏せられていて、そのうち一つに、薄い緑色の液体が湛えられていた。
 ――彼だったのだ。
 舌足らずな甘い声で名を囁いたのも、蠱惑的に微笑んだのも、興奮と期待に頬を染めていたのも。
 それを、ただぎこちなく柔らかい声をつくっただけだなんて、親しげな笑顔を浮かべただけだなんて、挙措に惑って、ワインに血を上らせていただけだなんて、認めない。今更ではないか、すべて
「俺が悪いんじゃない、のに」
 我を忘れたのは自分のほうだった。

見せかけ好青年×悪女気取り