傾国

ファルス

 晴れた日の真っ昼間に、スザクは暗がりに立っていた。クラブハウスの傍らの、樹木の茂みだ。
 彼の前に足早に歩いてきたルルーシュは、無言で木陰に入ってくると、彼の手を掴んでさらに奥へ引き込んだ。白い頬に薄く暗闇が落ちるのを、スザクはぼんやりと見ていた。
 スザクのようよう着たというふうな制服はくたびれていて、少し油の絡んだ髪にはいくらか塵がついていた。それを丁寧に一つ一つ取り、ルルーシュは地面へと落としていく。獣の母親が毛繕いをするようだ。その指先は、少し震えている。
 スザクは数秒間目を閉じてから、呼びかけた。
「ルルーシュ」
「怪我をしているな」
「君も。どうしたんだ、その眼帯」
 スザクは恐る恐る手を伸ばす。ルルーシュはその手を取り、すっと下へ下ろさせた。その静かで容赦のない拒否に、スザクの疲れた表情に、かすかな亀裂が入る。それを宥めるように、ルルーシュの指が、彼の制服の袖口をつまんだ。スザクは安堵して、同じように、少し余っている裾を掴む。
「怪我じゃない、心配す…しないでいい」
「イレヴンにやられたの」
「違う、」
「じゃあ、日本人にやられたの」
「…違う。だからそんな顔をするものじゃない、スザク」
 ルルーシュが目を細める。片方しか見えない紫が、瞬きによって点滅する。スザクはその回数を数えた。一回、二回、三回。ずっと、それを数えることだけをしていたいと思った。
 しばらくの沈黙の後、ルルーシュが硬い声で尋ねた。
「大丈夫なのか、ここに来て」
 彼の張り詰めた緊張に、スザクは肩を強ばらせて俯いた。
 現在、彼が置かれている環境。ルルーシュとナナリーの置かれた環境。立て続けにアッシュフォード学園が注目を受け、ただでさえ揺れているそれを思い、ルルーシュは怒っているのだ。
「ごめん…」
 しかし、その謝罪に帰ってきたのは、懇願に似た声だった。
「謝らないでくれ!」
「ルルーシュ?」
 スザクは驚いて顔を上げる。
 目の前で、友人の顔が歪んでいた。左目の眼帯を軽く抑え、唇を戦かせている。興奮で傷が痛んだのではないかと、スザクは再び手を伸ばそうとして、ためらい、結局やめた。
 ただ訝しげに見つめるスザクに、彼ははっとして、さらされた片眼を眇めた。
「…もしかして、おまえ、昨日も来たのか」
 スザクは反射的に、首を横に振った。それは本当だった。しかし、惨めだった自分を顧みられたことが嬉しくて、ずるくつけ加えた。
「…今日と、一昨日の晩だけ」
 第二皇子シュナイゼルの仮初めの庇護を受けたとはいえ、彼の処遇をどうするかは、まだ曖昧だった。そんなに長い間、自由にはしてもらえない。今ここにいられるのも、ひとえに上官たちの気遣いだった。もう特派は学園大学部を離れ、アヴァロンに本拠を置いているが、わざわざこの近くに待機してくれている。
「そうか」
 ルルーシュは低く囁いた。
「留守にしていて、すまなかった」
「…もともと会えると思ってなかったから、大丈夫」
 むしろ、会おうとは思っていなかったのだ。ルルーシュが、ナナリーが、自分のことをどう言うのかを、聞きたくなかった。だからわざわざ、人目につかない時間、人目につかない場所を選んだのである。
 しかし、未練がましい思いが、ルルーシュを呼び寄せてしまった。スザクを見つけた途端、彼は幽鬼を見たように立ち竦んだから、スザクは逃げ出したい衝動に駆られたが、怒ったような顔でこちらへ向かってくるのを見て、その心配は杞憂だと知れた。
 少しためらってから、スザクは顔を上げた。
「ルルーシュ…君の話を聞いていい?」
 それが、彼がクラブハウスに来た目的だった。
 スザクは、ルルーシュの意見が聞きたかった。自分では思い至らないことを、彼が指摘してくれるだろうと思っていた。
 皆、主が間違っていると言うのだ。
 ブリタニアの汚点だとか、愚かな小娘だとか、よってたかって、あの少女を貶めようとする。挙げ句、もともと行政特区など無知蒙昧な思いつきだと、一度認めたものを翻そうとする。
 もはやそれが役に立たない計画だとしても、もとより成功の難しい計画だったとしても、まだ出発しようとしたばかりであった彼女の理想を、詰る権利が誰にあるというのか。スザクはそう喚きたかった。しかし、第二皇子も第二皇女も、柔らかく言葉を濁すか厳しく話を逸らすだけで、表だって義妹を庇おうとはしなかった。その裏には、当然、あの不可解な虐殺がある。
 あのとき彼女に何があったのか、スザクにはわからない。だが、映像がはっきりと残っているのだから、その行為を信じざるを得ない。
 行為は、だ。
 彼女がそれをした理由が、ただの乱心であるとは、スザクには到底信じられない。名誉ブリタニア人とはいえナンバーズである自分を、ただの一度も否定しなかった彼女が、日本人に隔意を持っていたはずがないのだ。
 それなのに、彼女の今までは無視され、すべてが今、否定されようとしている。それに反論を許された立場にないことが、また、たとえその立場にあっても、人々を納得させうる説明ができないだろうことが、スザクにはたまらなかった。
 ぴくりと目元を引きつらせ、どこか怯えたような目で見返してきたルルーシュに、憚るように切り出す。
「あの…ユーフェミアさまについて、君はどう思って」
「あんなの、バカげてる」
 端的にルルーシュは詰った。
 スザクは一瞬にして蒼白になったが、彼は、違った意図を持って続けた。
「ユフィはあんなことする奴じゃない」
 親しげな呼び名に、スザクは目を見張る。
「ルルーシュ? ユーフェミアさまを」
「俺の妹だ」
 知っているのか、と聞こうとしたのを遮り、吐き捨てるようにルルーシュは言った。
 それはスザクも知っていたが、ルルーシュの口からも、少女の口からも、互いの名が出たことはなかったから、交流がなかったのだと思い込んでいた。だが、今のルルーシュの調子は、ただ血が繋がっているだけという言い方ではなかった。彼が誰かを愛称で呼ぶのを聞いたのは、スザクもはじめてだった。
「仲よかったの」
「…齢が近かったからな」
 言われて、スザクは思い出す。
 彼女はまだ16歳だった。まだ続くはずだった学校生活を置いて、皇族として日本へやってきたのだ。そして、その皇族としてのすべてを取引の材料に使い、特区を造ろうとしていた。
 全身を厭な感覚が駆け抜けて、腕が震えた。
 彼女は自分の主だった、皇族としての力がなくなっても、同じことだった。騎士として尽くそうと決めていた。それはスザク自身の、スザクだけの問題だった。彼がここに来たのは、ルルーシュの客観を求めてのことだった――だが、あの惨劇の陰は、この兄妹にまで及んでいたのだ。
 世界の狭さに、スザクはぞっとした。しかしそれを口には出せず、機械的な謝罪を口から漏らす。
「――ごめん。僕のせいで、僕がもっと…」
「おまえのせいじゃない! あれはゼロがさせたことだ」
 ルルーシュは異様に素早く、鋭く断定した。スザクは瞬く。
「ルルーシュ…?」
「そうだろう、スザク。違うのか。ゼロは会場に行った、ユフィと二人きりで何か話した、それで…」
 薄い唇が喘いだ。掴まれた袖口が強く引かれ、スザクは地面を踏みしめる。
 様子がおかしい。自分も言えたものではないだろうが、ルルーシュの態度はおかしかった。自分の不確かさ以上に不安が増大していくのを感じ、スザクは彼のもう片方の腕もとろうとした。しかし相手のほうが早かった。
「だから、悪いのは、ゼロなんだ」
 ルルーシュの指が、スザクの制服の腕に縋った。
 彼のそんな弱々しい仕草を見たのは7年前以来のことで、スザクは驚いて硬直した。
「ルルーシュ、」
「スザク、ユフィに…きっとゼロが何かしたんだ、そう、催眠術…とかを、かけて」
「え」
 普段から、現実にシビアな彼がそんなことを言い出したことに、スザクは愕然として目を見張る。それに構わず、ルルーシュは子供のように頑是なく言い募った。
「それで、あんなひどいことをさせたんだ。ユフィはあんなことしない。ナナリーにだって優しかったんだ」
 その言葉に、スザクは思考を止めた。
「…うん、優しい方だ」
 スザクは、白いドレスの裾を思い出す。何度かふれた、柔らかい手や、青空に揺れていた甘い色合いの髪を、瞼の裏に浮かべる。
 それを最後に見た瞬間を思い出し、スザクは口を押さえた。喉が奇妙な音を立て、それを必死に飲み込む。ルルーシュが、くい、と袖口を引く。小さく名を呼ばれて、スザクは大きく喘いだ。酸素が脳に巡らない。
「うん…そうか、やっぱりゼロが悪いんだ」
 ようやく、スザクは呟いた。
 主に、ゼロにはゼロの考え方、やり方があるのだから、それを尊重するわけではないにせよ、考慮はするべきだと、言われていた。それに渋々同意して、それが彼女の願いだったから、スザクはゼロのことを、考えないでいた。
 しかし今、すべての悪意は明らかに、ゼロから与えられたものだと、彼には信じられた。
 ルルーシュが勢いづいたように同意する。
「そうだ」
「ゼロが全部悪いんだ」
「そうだよスザク」
「ゼロはいなくなるべきだ」
 強い調子で言うと、ルルーシュは少しためらった。
「…スザク、それは違う」
「どうして!」
「ゼロはいなくなるべきじゃない。必要なんだ」
「僕らに?」
 スザクは軽蔑の表情を浮かべる。
 あんなものはいらない。あれがなくても、日本には特区があった。用意された平和でも、いずれ本当に変えていけるのだと、スザクは知っていた。自分の仮面がいつしか本当に変わったように。
 血で築かれた平和を、スザクは平和とは呼べない。無血での平和が夢想だとわかっていても、それが親しい人の血であるならば、なおさらだった。
「――あいつがいるから、いたからユフィが!」
 腹に溜まっていた憤怒が、堰を切って溢れ出そうとした。しかしルルーシュの肩が跳ねたので、スザクは勢いを殺がれた喚き声を途切れ途切れに散らしながら、必死で衝動を抑えつけた。消化されなかった苛立ちが重く胃の奥に沈殿する。
 ルルーシュは、スザクの袖口を掴んだまま、言う。
「それでもゼロは必要なんだ、スザク。…まだ、今は」
 不意に、悪戯の計画を話すかのように、ルルーシュが声を潜めた。
 それは7年前のような調子だったので、スザクはつられるように身を乗り出す。
 顔を寄せると、彼の呼吸を感じた。ルルーシュの知性に満ちた、しかしどこか上擦って熱を孕んだ瞳が、飼い犬の頭を抑えつけるような調子で、荒立つ心を鎮めようとする。
「まだ必要だ、あれが。だが、いずれ、いらなくなるときが来る。黒の騎士団から、日本人から、…世界から、いらなくなるときが来るから、だから」
 言葉を切って、ルルーシュはそのとき、その双眸でスザクを見た。
 白い布の下で、彼の左目が息づいて自分の右目を覗き込む気配を、スザクはたしかに感じた。身体の奥底、存在しない深い場所で何かが疼く。それは、性的な興奮にも似ていたし、激しい抵抗の痛みであるようにも思われた。
 ルルーシュが、頼りない声をスザクの耳に吹き込んだ。
「…そのとき、おまえが、ゼロを消せ。スザク」
「うん」
 その音が脳で言葉を形づくる前からすでに、欲望の充足に対する歓喜が込み上げていたのを、スザクは自覚する。どこかへと続く奇妙な繋がりを感じて、熱くなる息を細く抑え、彼は従順に頷いた。
 彼の間近でルルーシュは、心地よい子守唄を聴いたかのように、うっすらと笑みを浮かべた。その顔は安堵のようで、スザクもほっと息をつく。
 黒の騎士団におそらくは肯定的だったルルーシュから、思わぬ許しを得て、ひどく落ち着いた気分だった。
「ルルーシュは俺より頭がいいから、これでいいんだよな」
「そうだな」
「ゼロを殺せば、全部うまく行くんだよな」
「きっとな」
「ゼロが死んだら、君も嬉しいんだよね」
「ああ」
 ルルーシュの応答は揺るぎなくて、スザクは特区での事件以来はじめて、心から満たされたのを感じる。欲求と要求が完全に一致し、陶酔さえした。
「なあ、スザク、おまえがあれに乗っていてよかった」
 ルルーシュは少し首を傾げ、スザクの顔を覗き込んで言う。その甘えるような仕草は、いつか彼の義妹がしてみせたものに似ていた。瞳の色も髪の色も違うが、声の調子だけは、彼女に似て、晴れやかだった。
 スザクが軍に所属していることに否定的だった友人が、はじめて示してくれた理解が嬉しく、スザクは掴んだ制服の袖口を、手を繋いだ子供のように振った。なんだ、と彼は驚いたが、その浮かべられた微笑みは深まった。
 ただ、純粋な笑顔。
 それを見た瞬間、ほとんど衝動的に、スザクはその左目を隠す眼帯をむしりとろうとした。その、彼にとっては完璧でなければならない笑みに、大切な色の半分が欠けているのが、許せなかった。その眼帯は、異物だった。
 眼前に唐突に迫った手に、ルルーシュは一瞬目を見開き、伸ばされた腕に過敏に反応して身を引いた。スザクでさえ追いつけないほど、素早かった。掴んだ袖の布が張って、その動きは止められたが、その反動で彼はよろけて、クラブハウスの外壁に寄りかかるように手をつく。スザクは慌てて、伸ばした手の矛先を変え、彼を支えた。
「大丈夫?」
 ルルーシュは大きく口を開き、呼吸を荒げていた。悲鳴を上げるのをこらえるのが精一杯だったようで、喉の奥に絡んだような喘鳴が、息を吐く音に紛れていた。
「…平気だ、それより…いったい何だ」
 しばらくそうしてから、落ち着いたのか、眼帯をしっかりと押さえたまま、ルルーシュが顎を引いて尋ねてくる。
 彼が心底から拒否したことは、その声と肩の小刻みな震えと、かすかに生じた汗のにおいから知れた。スザクは手を下ろしたが、自分の内側に生まれた衝動を説明することができず、困惑する。
 眉を寄せた表情に、ルルーシュの表情が少し緩んだ。それを見ながら、スザクは自分の心の動きを慎重に探り、もっとも近いと思われる説明をつくりだした。
「…人の体温は涙に効くんだろ?」
 ナナリーに与えられた言葉を、スザクは宝物のように、免罪符のように取り出す。それが正解ではないと知った上で。妹については、彼は冷静さを簡単に失うのだ。
 案の定、反応は顕著だった。ルルーシュは怒った顔のまま青ざめて、自分の身体を支えるスザクの手を振り払った。
「俺は泣かない!」
 白い唇が引き結ばれ、ほとんど憎悪のような眼差しが向けられる。
 引き当てた思わぬ反応に、スザクは数秒、背筋を凍らせたが、どうにか気を取り直した。耳の奥に弾む心音はひどく乱れていたが、その紫が一つだけであったことが、今度は、彼の平静を保たせた。
 ルルーシュが何に怒ったのか、スザクにはわからなかった。しかしそもそも、彼が考えることを、理解できたことはほとんどなかったから、それを不思議には思わない。
 だからスザクは、ただ慰めた。
「ユフィのことは、ルルーシュのせいじゃないよ」
「……」
 ルルーシュは口を噤んだ。
 兄妹とはいえ、二人は何年間も会っていないはずだ。その妹の所行を、彼がどうしてそこまで気に負うのか。その疑問は、スザクにはすぐに解消できる。ルルーシュの情の深さは、身をもって知っていた。
 瞳を揺らす友人を見つめ、スザクは優しい声をつくって諭す。
「君は背負い込みすぎだよ」
「…おまえに言われたくない」
 低い声で唸ったルルーシュに、スザクは、心外だと唇を尖らせた。
「僕は、できること、ちゃんとわかってるから。でもルルーシュは、できないこともやろうとするだろ…」
「スザク」
 すっと目を細めて、ルルーシュが、強い声で呼んだ。
 その声にはいつも、背筋を正させる力がこもっている。スザクは呼吸を止めた。彼の確信犯的な瞳は、たとえその色が半減しても、損なわれない強制力をスザクに及ぼす――そして、それに対する反発心も呼び起こすのだ。
 少しの警戒を帯びて、それを隠してスザクは首を傾げた。
「何?」
「俺には、できないことなんてないんだぞ。…ナナリーのためなら」
 微笑みとともにつけ加えられた彼らしい一言に、スザクは一気に緊張を解き、苦笑した。
「…わかったよ、負けず嫌いなんだからさ」
「わかってないだろ」
 ルルーシュは声に諦念を滲ませた。
 言葉にしてもいないのに、理解を共有させようとするのは、彼の悪い癖だと、スザクは少し苛立った。
 スザクはずっと、彼が抱えているものを、分け持ってやりたいと思っていた。しかし、ルルーシュは結局一度として、自分の意思でそれを渡してくることも、見せることもしなかった。それにどれだけスザクが矜持を傷つけられたか、彼は知らないだろう。
 それでも表面上は柔らかく、スザクは取り繕った。
「ねえ、ルルーシュ、ナナリーに会っていってもいい?」
 許可を求めると、ルルーシュは力なく首肯した。
「…ああ、そっちの裏口から、先に入っていてくれ。食堂にいると思うから…そうだ、咲世子さんが…俺が先に、咲世子さんに会っておくから」
「うん」
 なぜ咲世子について言及されたのか、深くを考えず、スザクは頷く。
 ルルーシュは少しためらうようにしてから、そっと袖口の指を離させた。そのときになってはじめて、スザクはずっと、彼の袖口を握ったままだったと気づいて、少し恥ずかしくなった。隙のない平面の上に寄った皺を見て、空を掴む指を、諫めるように握り込む。
「俺は玄関から回るから」
 そう言い残して立ち去る間際、ルルーシュは、ふと振り返った。
「なあ、俺が戻るまで、ナナリーを守ってくれよ」
「え?」
 虚を突かれて絶句し、スザクは立ちつくした。彼に、そんな懇願するような言葉を聞かされるのは、実に七年ぶりだ。それも、譫言のようなものでなく、はっきりとした形で聞かされるのは、はじめてだった。
 すでに歩き始めていたルルーシュが、不審げに立ち止まる。
「どうした」
「あ、うん」
 呆然としたまま、先ほどの動きをなぞるように頷き、スザクは少し笑う。
 ルルーシュも少し笑ってから、木陰を出て行った。黒い制服に包まれた細い腕、白い指先が、昼間の壁の向こうへと消える。
 それを見送ってから、スザクは裏口へ回り、クラブハウスに入った。
 廊下を歩きながら、ルルーシュの、不安定な様子を思い出す。きっと、あの誘拐があってから、神経質になっているのだろう、と判断する。
 今はたしかに、ブリタニア人は警戒を怠るべきではない。イレヴンは、高ぶり、黒の騎士団を旗頭として、その叛意はもはや決定的になっている。その勢いに押され、たとえ武装していたとしても、駐留軍による警備は万全でない。このままではいずれ、暴動が起こり、少なくないブリタニア人が犠牲になることは確実だろう。
 ナナリーの傍に行くことに、今さらながら不安を感じる。もし何事かがあった場合、自分がいれば、余計に人心を煽ってしまうかもしれない。そう考えて、スザクは密かに、上着の下に隠したエンブレムを握った。そのときは、もう守ることを許されない主に誓って、何があっても二人の妹を守るつもりだった。
 しかし、クラブハウスの中に入り、内側から玄関に辿り着いたところで、スザクは足を止めた。唐突に、恐ろしくなったのだ。それは、イレヴンの暴動に対する恐怖ではない。
 ルルーシュは、慰めてくれた。あのときもそうだった。
 しかし、ナナリーはどうだろう。会いたいと言っていた義姉を、守りきれなかった自分を、どう思うだろうか。彼女は優しいから、きっと責めはしないだろう。しかし、失望されたような言葉を聞かされたら、汚いものを見るような目で見られたら、自分がどうなるかわからない。
 スザクは自分の足を見下ろした。臙脂色の絨毯を踏みつけたそれが、もう、自分の意思で踏み出せないことに気づく。
「…ルルーシュ」
 縋るように友人の名を呼ぶと、心細さが助長された。
 玄関の隅で、スザクは情けなく蹲った。やはり、彼を待って一緒に行こうと、制服の胸元を握り、俯く。
 クラブハウスの外からは、音がしない。さすがの学園も、数日前からは活気を失っているらしい。どこかの部屋から漏れているのか、廊下にあるものか、時計の秒針が進む音を、耳が拾った。ひどくうるさかった。
 ゼロを殺す。ナナリーを守る。
 時を進める音をかき消すように、スザクは小さく呟いた。
 そして、もうすでにこの世界を通り過ぎて消えた、唯一の友人の声を、道を委ねた主の声を、その僅かな名残を呼び起こそうとして、耳を澄ませる。しかし、スザクの耳に残る響きだけでは、足りなかった。もう一度、ただひたすらに明瞭な言葉で、生きる目的を与えてほしいと願った。
 陰の中に蹲り、スザクは犬のように、時間を止めて待っている。
 ルルーシュはまだ、帰ってこない。