傾国

よっつめ

反逆する 反抗する 傍観する 支援する 離脱する 革命する

白い壁が妨げる

 身体のあちこちが痛い。
 物理的な衝撃は簡単に思考を散らす。そこから逃れようと、ルルーシュは身を捩った。しかし身動きは取れず、手指は自分の意思ではない外部からの干渉によって、緩慢に揺れるだけだった。
 何度も、何度も、刻みつけられる。
 視界は少しずつ滲み出し、すべての抵抗が無駄になりつつあった。妹のことを考えて気を紛らせ、体勢を立て直そうとしたが、うまくいかず、それどころか、重ねられる刺激に、彼女の顔を思い出す暇さえない。両手は塞がれてなお、道を探している。しかし、それはどうやら成果を得ずに終わりそうだと、何人目かの自分が冷静に判断した。
 断続的に訪れる終焉に、熱い飛沫がこぼれていく。そのうちに、自分の涙らしきものを見つけ、ルルーシュは口を開いた。
 用意していた言葉があった。
 最上を選びかねて腹の中に溜めていた、たくさんの言葉が。言いたかった、言えなかった様々なそれは、止めることもできないままに、唇の隙間から逃げていった。空気に散っていく。そして白い壁に阻まれて、ばらばらに砕けていくのが、潰れた左目ではなく、右目に映った。
 あれらは、彼には必要のないものなのだ。
 ルルーシュはそれを、ようやく悟った。後生大事に抱え込んでいたのが莫迦らしいほど、呆気なかった。もはや彼は、それを別の人間から受け取ることができるのだ。もともと、ルルーシュのものはいらなかったのだと、気づいた。
 ――死にたくない。死んではならない。妹のために。
 それだけはおそらく真実だった。彼女には、ルルーシュがいなければならない。アッシュフォードは狡賢いだけでない、義理堅い一族だが、すべてを委ねることはできない。託せる者を失った以上、彼女は、ルルーシュが、自分自身の手で守らなくてはならなかった。
 ――殺されたくない。殺されてはならない。彼のために。
 そうも思っていた。あの友人は、自分を殺したとわかれば、再び自分を責め、死地へ赴こうとするだろう。汚れた手を嘆き、今度こそ、理想に殉じてしまうかもしれない。それを恐れていた。
 けれど本当は、そんなことはなかったのだ。
 ルルーシュは、自分の指が、もう動けないことを自覚する。生きるために足掻いてみせると決めたはずなのに、喉からは怒号ではなく、嗚咽が漏れていた。己の罪深さに後悔も懺悔もしないと決めていた。しかし、そのときばかりは、絶対者に許しを請い、縋りつきたかった。
 白い壁の向こうから、憎しみを込められた偽りの名と共に、捨てられなかった真実の名が聞こえる。

すべての革命は時限式である

 黒の騎士団は壊滅した。
 白の騎士がそれをなした。長く続いた戦闘の中、ただ一機で、紅も黒も、紛い物の騎士たちを屠り、そして首魁だったゼロを討ち取った。
 彼以外の人々が見た、ゼロが乗っていた機体のコクピットは、無惨なまでに細切れにされていた。めくれ上がった鋼鉄の板の隙間に生命のかけらはなく、紅と桃色に湿っていただけだった。

 それから数年が経ち、今、白の騎士が、皇帝を殺した。

 玉座は静まりかえり、皇帝の喉から流れ出した少量の血が、豪奢な衣服に染み渡っていく。大柄な身体は絨毯の上に横たわり、断末魔の痙攣の後は、淀んで動かなかった。
 渡されようとしていた栄誉の印、白地に鮮烈な紅薔薇をあしらった勲章は、騎士の靴底に踏まれ、もう誰の注目も受けていない。ただ一度上げた、ぱきり、という哀れな悲鳴も、衆目の引きつった声に隠された。
 彼が、ずっと機を狙っていたのだと、誰もがそう感じた。
 英雄とは言え、ナンバーズ上がりの騎士が、子らでさえ謁見を申し込まなければ会うことの叶わない皇帝に近づく機会は少ない。特に、ただ二人だけが周囲から切り離されるような瞬間は、訪れることがないと言っても過言ではない。
 しかし、その数十秒だけ、彼は、皇帝にもっとも接近できたのだ。
 自ら、白い騎士服の胸にいくつも垂れ下がった略綬を押しのけ、騎士の胸に勲章を刺した皇帝。そのさらされた急所に、騎士はどこからともなく出したナイフを突き立て、掻き切った。
 広間にはもう、しわぶき一つない。声を出せば、殺されるのではないかと、その殺人者を誰もが恐れていた。黒の騎士団との戦闘で、生き残った僅かな皇族たちも、煌びやかな光の下に立ちつくすだけだ。
「…どうして、どうして」
 やがて、甘い声が、忙しなくそう呟いた。
 空気が熱に膨らむ。期待と不安が、細い両肩にのしかかった。
 それをまるで意識せず、ユーフェミア・リ・ブリタニアは、遠くに佇む、自ら選んだ青年を見上げる。その瞳に、父であった王の死はない。ひたすらに、その騎士の手に握られた、血にまみれたナイフを見ていた。
「どうしてなのですか」
 上擦った声が喉を揺らす。飴玉のような瞳が、熱い、さらりとした水に濡れる。
「…長い間」
 彼女の問いに応えてか、遺骸を見下ろして、騎士は呟いた。落ち着いた響きだった。
「ずっと、考えていたんです。どうして彼はあんなことをしたんだろう、って」
 独り言かと思わせるような言い方だったが、ユーフェミアは、それが自分に向けられた言葉だと正確に理解した。騎士にとってはもう、その広間ではユーフェミアだけが、人間だったのだ。彼と時折交わした言葉から、ユーフェミアはそれをすでに察していた。
 騎士の言う「彼」が誰のことを指すのかわからないまま、ユーフェミアは尋ねた。
「…それで、あなたは、どう思ったのです」
 青年は、ゆっくりと瞬く。そんなことを聞かれるとは思わなかった、とでも言うように。その不思議そうな目を、ユーフェミアは悲しんだ。
「――あのとき、彼は、僕にたくさんのことを話しかけてきました」
 少し言葉に迷っていた様子だったが、やがて、ぽつりと彼は呟いた。
 その身体は無防備にさらされていたため、護衛兵たちは、その瞬間だけでなくいつでも、彼を捕らえることができたはずだった。しかし、その得体の知れないものを、得体の知れないままに消し去ることを恐れてか、その気配はない。彼は妨げられることなく、訥々と話した。
「変でした、許すと言ったり、許さないと言ったり…許してくれと言ったり。罰をくれるとか、罰なんて必要ないとか、裏切り者だとか、ごめんだとか、ありがとうだとか、嫌いだとか、愛してるとか、死んでしまえとか。いろんなことを叫んでいたのが、聞こえないはずなのに、聞こえました。…結局、僕は聞こえないふりをしたけれど」
 彼の言うことが理解できず、ユーフェミアは恐ろしさから視界を閉ざしたくなるのを懸命に堪えた。睨みつけるように、自分の騎士を見つめる。
 彼女の視線を感じていないかのように、騎士はナイフの刃に広がる紅い液体を見ていた。森や湖面のように揺るぎなく深い緑は、そのままの光を湛えている。ユーフェミアに従い、理想を説いたのと同じままだ。
「あのいくつかは、この数年の、僕の救いでした」
 貶められる中での、と、聞こえない言葉を耳にして、ユーフェミアはぴくりと目尻を引きつらせる。
 自分の騎士が、宮廷で、決していい待遇を受けられていないことを、彼女は知っていた。後悔し、懺悔してもいた。彼女には、目についた悪意を払うことしかできなかったのだ。時にはそれを自らが背負い、青年のいたたまれなさを誘ったことも、わかっていた。
 先ほどの言葉で、ついでのようにさりげなく切り捨てられた自分を、ユーフェミアは悟った。
 胸に、切り裂かれたような痛みが走る。そして、恥じて唇を噛んだ。これは、違うのだ。主人として、騎士を守れなかった罰なのだと、胸のうちに繰り返す。ユーフェミアは無力すぎたのだ。
 その証拠に、目の前で、自分の騎士が壊れている。
「…少し前に、やっと思ったんです。あの言葉に対して、僕はきっと、何かしなくちゃいけないんだって。…違うかな、そう、何かしたいんです。僕はばかだから」
 騎士は遠くを見つめ、目を眇める。その口元に、小さな歪みが生まれた。少し遅れて、ユーフェミアはそれが、笑みなのだと気づく。
「それを思いつくのに、こんなに時間がかかってしまいました」
 自分の愚かさを嘆くように、騎士は嘆息した。深い息はひどく疲れ切っており、その倦怠を振り切るように、茶色い髪が数度、犬のように振られる。胸を飾る燦然たる略綬の群れが、その動きに合わせて揺れた。
 再び顔を上げた彼は、言葉を続けた。
「…それで、とりあえず、皇帝陛下を殺したんです。彼は、この人のことがすごく嫌いだったし。僕はもう、父親を殺すのには慣れたから、簡単すぎたかなって思うんですけど」
 その顔には、晴れやかではないにしろ、何かを吹っ切ったような笑みが浮かんでいる。
 ユーフェミアにはもう、彼の説得を試みることさえできなかった。彼が自分の下に戻る可能性を、もはや信じられなかったのだ。
 泣き出しそうになりながら、それでも皇女の責務として、彼をこの冷えた宮廷に引き込んだ者の責任として、尋ねた。
「そして、あなたはこれから、何をしようと言うのです」
 その言葉に、彼はようやく、はっきりと彼女を見た。騎士の足下で、薔薇が砕ける。紅い色が散り、儚く転がった。ブリタニアの花が。
「彼がしたかったことを、俺がしようと思います」
「…それは、何ですか」
 主の震える声に、枢木スザクは優しく目を細め、会得した完璧なブリタニア語で歌うように言った。
「ブリタニアを、ぶっ壊す」

物語はすべからく、終わり、始まり、そしてまた終わる

 革命のたいていは、それを欲した者が消えた後に完結される。

 栗色の髪を枕に広げた少女は、呼吸を深く沈めた。彼女の名を唇だけで優しく呼び、女になりかけている手を放すと、心のうちで、ルルーシュはいつものようにひとしきり自分を罵り、父親を呪った。彼の世界に彼が感情を向ける人間は少なく、そのうちで彼が恨める人間は、さらに少なかった。だから必然的に、彼の激情は、その二者に向けられたのだった。
 昼過ぎの白い日差しの中、ルルーシュは立ち上がった。呆然としたまま、終ぞ開くことのないまま終わるのだろう妹の瞼を優しく撫でる。骨張った指は痙攣し、なかなか思った通りに動かなかった。数度、指先で薄い皮膚をくすぐって、そっと手を放した。
 ナナリーの呼気は浅く、今や続いているのが不思議なほどだ。アッシュフォード学園に身を寄せていたころは、発熱は少なくなかったが、このように衰弱を見せることはなかった。何もわからないまま、戦乱の最中を逃げ隠れする生活は、彼女には酷だったのだ。何より、兄の揺らぎと沈黙が、ナナリーを不安定にさせていた。
 ルルーシュは自分の体を見下ろした。そして、すぐに目を逸らした。
 ふらつきながら窓際へ寄り、薄いカーテンを引いて光を遮る。ちらりと見えた窓の外には、まだ体裁を取り繕って美しい町並みが見えた。
 この場所には、何の噂も届かない。欧州のうちでも中心地から離れ、早期にブリタニアとの講和を結んで戦火を免れた国で、ブリタニア貴族の保養地となりつつある。EU戦役後にいくつか建てられた別荘の一つを、ルルーシュは貸借していた。兄妹がここに居着いてもう、一年と少しになる。
 居場所を知らせていないため、エリア11の友人たちからの便りは望めない。二人きり、という言葉が、この上なく正確に彼らを表していた。互い以外に何一つ持っていないのだ。
 寝台に伏せる妹を一度振り返り、ルルーシュは胸に迫るものを飲み下した。
 部屋の中にあるすべては、かつて学園で暮らしていたときよりも、高価で洗練されている。肌触りのいいシーツも、毛足の長い絨毯も、アンティークの家具も、何もかもが。しかしそれは、ナナリーにとって、たいして意味のないことだろう。彼女に必要なのは、そんなものではなかったのだ。
「おにいさま、おねがいです」
 時折ナナリーは呟く。痩せた手指に力を込めて、自身もその言葉を口にしながら請う。すべてが聞こえなくなる前に、彼の声が欲しいと言う。健気な望みはルルーシュの心臓を苦しく締めつけた。どうあがいても、彼にはそれを叶えてやることができない。
 遠くから届く鐘の音が時間を告げる。ナナリーがたまに聞いていた料理番組がはじまる時間だと気づき、ルルーシュはぎりぎりまで音量を下げてからラジオの電源を入れた。
 周波数を合わせると、軽妙なクラシックが流れてくるはずが、ざわめきがスピーカーに振動を伝えた。現場ではなく、局のほうで何か混乱が起こっているらしい。ブリタニア本国で何か大きな事件があったのか、近ごろは突然の編成変更が多い。雑音を数秒素通りさせて、復旧が見込めないと悟ると、ルルーシュは電源を落とした。音が跳ねて、途切れる。
 こんなものをつけたところで、もはや意味などなかった。ナナリーの耳はすでに、窓ガラスを叩く雨音を聞きつけることも難しいのだ。
 薄明の中、寝台の側に膝をつく。動かない頬に向けて、一度だけ喉を震わせ、頭を妹の肩の側に寄せて目を閉じた。
 終焉が瞼の裏に見えている。避けようもなく近くにあって、こちらを静かに見つめている。だが、それに渡すべき言葉など、ルルーシュの体のどこにも残ってはいないのだった。