たたかう にげる おかね おまかせ ギアス
嘘だ。嘘だ。嘘だ。
氾濫する言葉の奥から、冷静な声が聞こえる。
わかっていたはずだ。感じていたはずだ。無視してはいけなかったそれを、見えないふりをした結果がこれだ。
背後から聞こえる律動的な足音は、乱れをまったく感じさせない。自分はこんなにも動揺して、息を弾ませているというのに、一定の速度は維持されたまま落ちない。どうしようもなく背筋をのぼる、焦燥、恐怖、認めたくない感情を背負ったまま、走る。
開けた場所に出て、ルルーシュは立ち止まった。薄暗かった地下通路の奥に、光が入り込んでいる。なぜか、既視感を感じる。
「ゼロ」
低い声を近く感じた。そこには、獲物を追い詰めた獣の興奮が潜んでいる。友人の、知らなかった、けれどどうしてか知っていたような気のする一面を思い知らされて、ルルーシュは耳をふさぎたくなった。
一つ息をつくと、重くマントを翻し、くるりと狩人に向き直った。必死で息を整える。
「…久しぶりだ。枢木一等兵」
「今は准尉だ」
スザクは静かに答え、ルルーシュは言葉をなくす。
彼は、白いパイロットスーツを着ていた。金と緑との組み合わせは、時にコーネリアよりも憎しみの対象となったあのナイトメアと同じだ。右腕はすでに真っ直ぐに伸ばされ、その先には狙いを定めた銃口がある。
ルルーシュは、その揺るぎなさに、戦慄を覚える。義兄を撃った直後の、自分の腕を思い出した。あれは、震えていただろうか。
「…抵抗すれば、撃つ」
ぴたりと宙に固定された、白い砲台。
うなじに、じっとりと汗が滲んだのがわかった。
スザクの強さは、よく知っている。あの夏の間、怠らなかった鍛錬を間近で見ていたし、再会の折には一度、数秒でしかないが、相まみえたこともある。射撃の腕までは知らないが、たとえ彼が素手であったとしても、自分が敵うとは思えなかった。
逃れるために、ギアスを使うしかないと判断し、ルルーシュは唇を噛む。
たかだか命乞いなどで、彼にギアスを使いたくなかった。軍をやめろ、ゼロに従え、自分を受け入れろ、彼に命じたいことなど、いくらでも出てくる。再会してから今まで、スザクにギアスを使うことを、考えなかったとは言わない。
けれど、本当に使おうと思ったことはなかった。
渇いた喉を、唾液を嚥下することで湿し、覚悟を決めた。無理やりに声を出す。
「…命じる。その、銃で、…」
こんな瞬間にまで、ためらう。
舌が凍りつく。仮面の奥で、きつく目をつむった。それで気づく。まだ左目を、露出さえさせていなかった。判断力が低下している。
「君に命じられる筋合いはない」
一瞬だけ不快げに目元を歪めたスザクの人差し指が、引き金にかかっている、ためらう震えのない、白いグローブに包まれたそれがゆっくりと動く。
ルルーシュはそれを凝視しながら、口を開いた。
「私を撃つか」
顔をしかめ、スザクは呟く。
「…君は恩人だ。でもそれが、…軍人の仕事だから」
「……ふ」
ルルーシュは低く笑った。一度始まるとそれは止められず、喉の奥は痙攣し続ける。本当におかしかった。仕事で、スザクは自分を殺すのだ。茶を淹れたり、猫祭りの衣装を用意したりするのと、同じレベルで引き金を引くのだ。
笑いを止めない相手に、スザクが戸惑う気配がする。
しかしルルーシュは、もう彼を見なかった。笑声の合間に、ルルーシュが意識する暇もなく、左目のグラスがスライドする。
「っ何」
「銃を捨てて! ……私を、見るな!」
見開かれたスザクの瞳孔が、淡く赤に包まれた。見守る視線の先、羽ばたく小さな鳥が、透き通った緑を蹂躙する。
銃を持つ手が下ろされた。
「――うん、わかったよ。ルルーシュ」
スザクは微笑んで、赤い瞳を瞼に隠した。
急速に焦点が結ばれた。
ふらついた身体を慌てて立て直す。自失から、スザクは跳ねるように前後を取り戻した。右手の銃を確かめるためグリップを握ろうとして、いつの間にか、それが手からなくなっているのに気づく。
「…ゼロ? どこに」
追いかけていたはずの黒い姿が見あたらなかった。何があったのか、スザクにはわからない。しかし、自分が彼を捕らえ損ねたことは理解できた。
ふ、と息をつく。胸のうちにじわじわと、嫌な重みが増した。
ゼロを見つけ、追いかけているとき、たしかに安堵していたはずだ。これで、黒の騎士団のテロリズムは終わる、と。しかし、彼を取り逃がしたあとも同じように安堵していることに、スザクは気づく。ゼロと関わるときに揺らぐ自分の理由を探ろうと、どうしても思えないことは、前から知っている。
周囲には、スザクの他に人はいない。
見回すと、やって来たときは気づかなかったが、そこはシンジュクゲットーの地下に似ていた。放置された瓦礫が散乱し、穴の空いた屋根の上から僅かな光が差している。先ほどまでゼロが立っていた場所、雑草がはびこる床の上で、眩しさを弾くはずのガラスの破片は、何を映してか黒く散らばったままだ。
その奇妙な暗がりに、薄暗い場所を思い出す。
あの、旧友に再会したとき、上司が現れて銃を渡してきたとき、目を合わせずに肩を強ばらせた彼を見たとき、スザクは思った。
――ここが、その瞬間の彼の傍らこそが、自分の死に場所だと。
ルルーシュ、昔の自分を知り、おそらくは好いてくれていた友人。諍いを起こしたことは少なくなかった。何日も口をきかなかったこともある。それでも、彼は、妹の他に唯一、スザクを受け入れた。ただ一人だけという、そのことが、あのころの自分にとってどれだけ誇らしかったか。
あのとき、そのスザクにさえ不信を見せた彼を、守って。
「僕はあのまま死ねばよかったね」
呟くと、ガラスの中の黒が揺れた。よく見ると、それは、黒ではなかった。紫だった。透き通った色を落として、宝石のように揺らめいている。映り込んだ情けない顔が、アメジストの奥に融ける。
軍務の最中には呼ばない、久しぶりに口にしたはずのその名が、するりと喉から出てきた。どうしてか、まるですでに一度形取ったかのように、舌に馴染んでいる。
「…ルルーシュ」
君の中だけで、正しく生きたかった。
その空間に触れるとたしかに何かに触れ、しっかりと他の五感から情報を得ることもできる。しかし、その先に、スザクは何も見ることができないのだという。
緑の瞳に移り込む小さな彼の姿を、他人は見ることができるというのに、スザクの脳はそれを認識してくれない。髪の色だとか、肌の色だとか、目の色だとか、そういったものは、ひたすら集中すれば、どうにか感じ取ることができる。それを、髪の細さや肌のおうとつ、目のかたちなどへ広げようとすれば、途端に意識は拡散し、自分が何をしようとしているのかわからなくなる。
それを本人たちから説明されたとき、リヴァルをはじめ、生徒会の面々は困惑した。てんでに顔を見合わせ、無言のうちに、彼が無理をして冗談でも言ったのだろうと判断して、イレヴンのユーモアセンスに首を傾げながらも暖かく茶化した。
だが、スザクの生真面目さは折紙つきだった。まったく表情を動かさず、彼は繰り返した。
「すみません。嘘じゃないんです」
気まずく静まりかえった生徒会室、彼の隣でずっと黙っていた少年が「スザク、」と小さく呼んだのに、彼は全身で食いつくように反応した。その炯々と光る緑瞳を見て、ようやく全員が、事の深刻さを実感した。
ミレイが即座に、スザクを病院に連れて行こうと主張した。軍で外の医者に診せることが無理なら、アッシュフォード家の使用人だということにして、専門医に診察してもらうべきだと言い、実際にその手配をはじめようとした。しかし、彼は曖昧な返事をするだけで、彼女に甘えようとしなかった。
それから一週間が経ち、結局事態には何の進展もない。スザクは変わらず軍務に赴き、訓練に集中している。たまにクラブハウスへ寄って、幼なじみの兄妹と会ってはいるらしいが、彼らから、スザクが復調したという話はまだ聞かない。
今日、彼は久々に登校した。リヴァルが見たところ、朝のうちは、彼は至って平静だった。相変わらず親友を見ることはできないものの、かすかな気配を感じ取って、不自然でない態度は取り繕えている。ただ、親友を追おうとする視線だけが覚束なげで、時間が経つごとに、少しずつ疲労を溜めていた。
そして放課後の生徒会室で、スザクはずいぶん疲れているようだった。彼を労って、各々が少しずつ彼の仕事を引き取り、学園に散らばっていった。
そんな中、リヴァルは思ったよりも仕事を終え、生徒会室への帰路を辿った。スザクをどうやって励まそうと考えているうちに、目的の場所へと着く。扉を開けようとして、彼ははっと身を引いた。分厚い隔ての向こうから、聞こえるはずがないのに、小さな声が、はっきりと耳に届いたのだ。
「ルルーシュ、そこにいる?」
平坦な声だった。何かを読み取るには短すぎて、スザクが何を思ってその発言をしたのか、リヴァルには咄嗟にわからなかった。ただ、にわかにあの少年が出すものとは思えない、薄気味悪い響きが、そこにあった。
リヴァルは思わず二の腕を押さえる。身体の裏側を、むず痒い感覚が這っていた。
「いるよ」
空気が動いて、よく通るすまし声が、遠ざかっていくのが聞こえた。扉近くにいたらしい、リヴァルよりも早く戻った友人が、スザクの近くに寄って行ったものらしい。このような状況になってから何度か会っていることもあって、さすがに慣れた様子だった。
それからしばらく、二人は何か会話をしているようだった。さすがにそれまでは、リヴァルには聞こえない。数秒ためらってから、彼はようやく、扉脇のスイッチを押した。
空気が動く音を立てて、壁がスライドし、彼の視界に二人の姿を現した。
「ただいまー」
「リヴァル、早かったね」
声を出さず、鼻を鳴らす親友に代わってか、顔を上げたスザクがおっとりと微笑を向けてくる。柔らかい緑の双眸が、リヴァルの目をしっかりと見据えた。そこに陰はない。いつも通りの彼だ。
先ほどの嫌な印象は、声がくぐもっていたせいかと、胸を撫で下ろす。そうだ、スザクがそんな声を出して、あの友人がこうも無反応でいるはずがない。彼の普段の行動を考えれば、心配しすぎて、さすがの鈍感からも鬱陶しがられるくらいに構いつけるだろうと思われた。
「うん、俺って有能だしさ」
「よしわかった、会長に、リヴァルが無能と言っていたと伝えよう」
リヴァルの戯言に、即座にあくどい笑みを浮かべた友人に、リヴァルは慌てて視線を移す。
「おいっ、やめろよなそういう冗談!」
「冗談のつもりはないが」
彼は肩をすくめ、席を立ち、爪先を給湯室の方向へ向けた。茶を入れてくれようとしているのだろうと、リヴァルが先走って礼を言おうとしたとき、スザクの声が響いた。
「ルルーシュ、そこにいる?」
へ、と掠れた音を喉から漏らして、リヴァルは時計を見た。長身と短針は、自然界の法則に従って、彼の体感と同じく時を進めている。
「いるよ」
――先ほどは気づかなかった。戸惑うリヴァルを無視して、その問いに応えを返す友人の声は、何かを諦めたかのようだった。
彼は再びスザクの隣に腰を下ろしたが、書類に何かを書き込んでいるスザクは、そちらを見ない。ちらりと彼を見た紫の双眸が、すっとその姿から逸らされた。そしてそのまま、じっと動かない。リヴァルの反応を見ることをも拒否するように。
無意識に後ずさった。
「…そうだ、俺、トイレ行ってくる」
「あ、うん」
スザクが顔を上げる。先ほどと同じ微笑で。
「行ってらっしゃい」
「寄ってくればいいものを」
その隣から、ばかだな、と呆れた色を隠さない声音が詰り、焦点の揺れる紫が彼をとらえた。そこに、珍しく焦慮が浮かぶ。それにたまらない気持ちになりながらも、どうにか理解を込めてへらりと笑い返し、リヴァルは踵を返した。
「すぐ戻るからな!」
だから少しだけ時間をくれと、悪友に心中で拝む。そうでもしないと、申し訳なさと不安と、もう一つの感情で、すべて放り出して逃げ出してしまいそうだった。
「ああ」
少しの間を置いて、ゆっくりと響いて聞こえた返事を聞いた途端、急いて廊下へ足を踏み出した。不自然な歩調の変化にふらついたその背に、再び、声が届く。
「ルルーシュ、そこに」
扉が閉まるのを待たず、リヴァルは両手で耳を塞いだ。