傾国

コール

 ランスロットのデヴァイサーが、暴走を収め、軍務に復帰したと聞いて、ユーフェミアは総督室に向かった。姉の許可を得てから、彼に会うつもりだった。しかし自室を出る前に連絡すると、ちょうど彼の上官から報告を聞く予定があるということだったので、迷った末、まず彼の話を聞くために、ユーフェミアは予定を変えた。
 護衛の兵に部屋に通されると、総督の机についたコーネリアと傍に控えるギルフォードの手前、狭く白い背中が正面にあった。それが軟体動物のような、非人間じみた動きでくるりと振り返ったので、ユーフェミアは瞠目した。丸く薄い眼鏡が光に白く染まり、その奥に、冷たそうな色彩があるのがちらりと見えた。
 数瞬遅れて、それがスザクの上司だと気づき、息をつく。ユーフェミアは、彼に軽く会釈して、コーネリアに礼と詫びを言った。姉は手を振った。
「いや、いい。さほど待っておらん。こいつ、遅刻しおった」
「間に合うと思ったんですけどねぇ」
 ロイドは金属的な声を伸ばして謝った。そして、すぐに本題に入って煙に巻こうというのか、聞かれてもいないのに報告を始めた。
「クルルギ准尉は回復しまして、もう動いたりしゃべったりしても大丈夫ですよぉ」
「急にか?」
 コーネリアの眉が不審さに寄る。ユーフェミアも信じられなかった。コクピットで震えている彼を、説得して引き出すのにも、二時間以上かかったのだ。さらにそれから、数時間を要してロイドやセシル、ユーフェミアを認識させ、確かな言葉を引き出すのには丸一日がかりだった。それでも、いくらなだめても、人を拒否する動きや双眸にちらつく狂気の色は消えなかったし、断続的に痙攣が繰り返されたので寝台から動かせなかった。
「何か、きっかけがあったのか」
「はいー、電話がかかってきたんですよ」
「電話?」
 コーネリアが目つきを鋭くした。はい、とまた、壊れた人形のようにロイドの首が上下する。
「クルルギ准尉の軍支給の携帯に」
「誰からだ?」
「アッシュフォード学園って表示があったんで、とりあえずクルーミー副官が出て、取り次いだんですが、彼、出ないって言い張ってですねぇ。でも、クルーミー副官がまあ、相手に簡単に事情を話してから、押さえつけて無理やりに」
 あの華奢で優しげな面差しの女性が、体格のいいスザクにそんな乱暴をはたらく様子がユーフェミアには想像できなかった。怪訝な表情を浮かべたのが、自分でもわかる。しかし直接彼女のことを知らないコーネリアは、副官を男とでも思っているのだろうか、話の先を促した。
「それで?」
「相手と話してるうちに落ち着いてきて、最後にはすっかり元通り」
「元通り?」
 ロイドは花が咲くような手つきで白衣の袖を翻し、手のひらを閃かせた。
「正義感に溢れる、一途な好青年に戻りましたよぉぉ」
 にんまりと笑う。
「電話の相手がうまく、なだめてくれたみたいですね」
「なだめるといっても、」
 ユーフェミアは思わず口を挟んだ。それからはっとして姉を窺う。彼女が微苦笑を浮かべて頷いたので、続けた。
「あの様子で…帰ってきた直後ほどではありませんが、どうしてあんなことになったのか、何を言えばいいのかも…わからなかったのに、その人は、いったい何を言って、正気づかせたのでしょうか? ……!」
 いきなりぐぐっと、猫が伸びるように顔を寄せられて、ユーフェミアは硬直した。機械油の匂いが鼻をつく。病的に白い面には染み一つない。兄とだって、スザクとだって、これほどに近づいたことはない。背筋に怖気が走った。
「必要以上に近寄るな! 無礼な」
 しかし即座に、整った鼻面は押し返された。コーネリアが立ち上がり、机の向こうから、長い銃の筒先を伸ばしたのだ。軍人らしい、筋の通った硬質な動きだった。
「あはァ、すーみーまーせーんん。癖で」
 糸を切られた操り人形のようになめらかに一礼すると、ロイドは澄ました顔で佇まいを直した。ユーフェミアも息を整え、姉の眼差しに首を振る。
 ガラスの奥の瞳が焦点を少しだけ失い、回想の色になった。
「…見たのか、って聞いてましたねぇ。何回も。相手の子が何て言ったかは、知りませんが」
「他には?」
「途中からふつうの会話になっていきましたよ。アーサーがそんな馬鹿なとか、おにぎりがどうとか。それで最後は、挨拶。じゃあまた学校でーうんわかったよじゃあね。通話切断。で、僕とクルーミー副官を見て、すみません、ご迷惑をおかけしました――っと」
 ロイドは再び、一礼した。今度はスザクのものを真似たのか、少し固い動きだった。
 その情景、正気を失っていた少年が、たかだか十数分の電話でだんだんと現実を取り戻し、突如日常生活に復帰する様を思い描くと、ユーフェミアは戦慄をおぼえた。
 しかし、コーネリアもロイドも、それはあまり気にならないようだった。
「アッシュフォードの、誰と話したのか…」
 コーネリアが人差し指を曲げて唇に当て、思案の体勢になる。
「さあ、生徒会の方だったことくらいしか」
「ふん。…あの第七世代は、まあ、使える。しかしあの暴走はいかん。直る要因があるなら、改善はできるだろうが…」
 その言葉を聞いて、ユーフェミアはようやく、二人がスザクについて論議しているのが、新世代ナイトメアフレームの開発に必要なことだからなのだと気づいた。思わず声を上げそうになり、慌てて抑える。コーネリアが少し驚き、気遣う視線を向けてきたが、かすかに首を振るたけでやっとだった。
 ――おかしいのは、自分なのだろうか。
「できますよぉ、今までだってしてきたんですから」
 ロイドの自信に満ちた声が、どうしてか、遠い。
「あれくらいのこと、今までだってあったんです第五世代のときも第六世代のときも。予測はできていましたよ。でも然るべきとき然るべき場所を観察していれば、解消法は見つかるんですよぉ。何事もまずは観察から! そして思索と直感です」
 コーネリアの、指を組み替える仕草も、水中の動きのようなスローモーションだ。
「今の言い方では、おまえ、何か思い当たりがあるようだな」
「心理学はクルーミー副官が得意ですよぉ」
「私が聞いているのは、おまえの、意見だ」
 力強い声が、アクセントをつけてゆっくりと発音されると、驚くほど吸引力を放つ。だが、彼女の得意の誘導術は、今度は通用しなかった。
「僕、人のことって、わからないんですよねぇ」
 ロイドは据わらない首を傾げた。
 コーネリアは苛立たしげに髪を振った。そして、いつものように、ただ傲慢な音で命令した。
「おまえに聞いているのだ、気遣いも遠慮もない意見をな。勿体ぶらずにさっさと答えろ」
「答えたら何かもらえます?」
 子供のように期待に満ちた蒼眼が、三日月の形に歪む。しかしコーネリアの唇がそれ以上に歪み、どこか楽しげな、悪辣な笑みを象った。
「答えなければ、兄上に訴えて年間予算を20%削る。金食い虫めが、ちょうどナリタ連山で出たナイトメアの修理代の、そうだな、三分の一ほどにはなるだろう」
「ええーっ」
 甲高い不満の声が上がるが、薄青い瞳が揺らぎなく睨み付けると、青年は渋々口を開いた。
「そうですねぇ、なんだか、台詞合わせって感じでしたね」
 コーネリアは不意を突かれたように黙った。
「…どういうことだ」
「演劇のリハーサルで、台詞合わせして、役割の確認みたいなのをするでしょ。そういう感じですよ、わかりますぅ?」
「わからん」
 一刀両断され、ロイドは大仰に肩をすくめた。
「さああ、困りましたね。僕、こういう説明嫌いなんですよ。そんな感じがしたってだけで」
 部屋の空気が沈殿する。
 コーネリアは興ざめしたような目でロイドを見ているし、ロイドはそれ以上の言葉を尽くす気はないようだった。誰かが発言しなければ、この話はそこで終わる。
 ユーフェミアは懸命に考えた。ロイドの言ったことを理解したかった。それが、スザクを理解することにつながるのなら。途切れてしまったような気がする、彼との共感を取り戻したかった。
 ――スザク。
 今この部屋で、彼のことを考えているのが、自分だけであるという感覚に侵される。
 ユーフェミアは勇気を振り絞り、考えながら口を開いた。
「それは、つまり…クルルギ准尉が、お友達と会話をすることで、あの人の本来の性格を確認していって、自分を取り戻したということ…ですか?」
 思わぬ方向からの言葉に、ロイドはきょとんと目を見張り、それから破顔した。
「あァ、さすがクルルギ准尉の姫君! わかってらっしゃるー!」
 大当たり! と叫びそうな声をロイドが張り上げる。先ほどのような接近の気配を感じて、ユーフェミアは肩を強ばらせた。
「ユフィはクルルギを騎士にしてなどいない! 与太口を叩くのを控えろ、愚か者」
 コーネリアがかっとして立ち上がる。傍に控えていた、今までずっと沈黙を保っていたギルフォードが、殿下、と低い声でたしなめた。
「む、」
 白い眉間に谷を作ることで、彼女は我を抑えた。
 彼女の機嫌に、ロイドは頓着しない。波間を漂っていたくらげに羽根が生えたような勢いで、舌を回転させる。
「そうですそうです、僕が言いたかったのはだいたいそんな感じですよ。もともとあの子は自分を型に当てはめるのが得意で、だからランスロットの理想のパーツなんですきっと! 彼は降ろしませんよぉ、ずっとね!」
「わかったから口を閉じろ、喧しい」
 コーネリアはついに嘆息した。鋭気に満ちあふれた彼女にしては、珍しい。
「クルルギについての報告書は、適宜上げろ。以上だ、もういいぞ」
「はァ〜い、失礼しましたァ」
 高校生のような辞去の言葉を残して、ロイドは部屋を出た。それがあまりに唐突に思われて、ユーフェミアは自分を制御することを忘れた。慌てて、コーネリアに断ることもせず、扉を開けてロイドを呼び止める。
「あの!」
 すでに廊下の随分先へ進んでいたロイドが振り返った。
「はい?」
「その、電話の方は…」
 ――女の方でしたか?
 言いかけて、ユーフェミアはためらった。自分が何を言おうとしていたのかを理解し、はっと息を呑む。指先と爪先から、じわじわと羞恥が込み上げ、体内の隅々までの熱を上げた。
「あ…いいえ。なんでもありません…」
 気をくじかれ、か細い声を絞り出すと、ロイドはそおですかァと波打つ声を残して未練なく去った。ユーフェミアは俯き、唇を噛んだ。
 ――ユフィと呼んでくれたのに。
 何度も呼びかけたのに、どこか別のところを見ていた彼の姿が思い出される。
 ユーフェミアはさみしかった。ずっとでなくてもいい、もう少しだけ、一人にしないでほしかった。スザクは、はじめて出会った、彼女の甘い理想を分け合ってくれる人なのだ。彼といるときは、身分にも、性別にも、こだわりたくないし、こだわってほしくない。そう思うのは、彼女の傲慢なのだろうか。
 彼が通う学園には、彼の友人や、もしかしたら好きな女性がいて、彼は、ユーフェミアと理想を語るよりも、その人たちと過ごす時間を、楽しいと感じるのかもしれない。そうだとしても仕方ない。それは、ユーフェミアもわかっている。
 けれど、彼女の存在は、目の前にいるのに認めてもらえないほど、スザクにとってつまらないものなのだろうか。
「…私たち、お友達にも、なれないのですか」
 彼の日常、コールの向こうが、遠い。