傾国

悪夢にふたり

 朝だ。
 眩しい日差しが瞼を通して感じられ、沸き立つような気持ちが起こる。こんな明るい朝は、離宮の池は驚くほどうつくしい。白い水面に灼けるような光が飛び散り、狭い面積を広げるようにして、一斉に輝くのだ。その眩しさに目が慣れ、やがてすうっと青が浮かび上がる錯覚は、世界が塗り替えられる瞬間を見ているようだと、母が感歎したことがあった。
 三人で見たその光景を求めて、ナナリーは絡みつく眠気を振り払い、目を開けた――つもりだった。
 何も見えなかった。
 視界は変わらず、薄暗い。ナナリーは一瞬で恐慌し、さらに一瞬で、事態を悟った。
「あ…」
 小さな声が口から漏れた。
 そうだ、彼女の目は、もう見えないのだった。そして、母もまた、この世にはいない。
 どっと吹き出した汗が、寝間着を湿らせ、肌に冷たい。寒気に肩を震わせ、ナナリーは無意識に兄を探した。日本に来てから、彼は、同じ部屋に寝てくれる。さみしいときも、心細いときも、手を伸ばせば応えてくれる。それは優しい声であったり、柔らかい手であったりして、それさえあれば、彼女は、恐ろしいことがあっても耐えられると思うのだ。
 上がった熱を心地よく冷ましてくれる彼の手を求めて、ナナリーはシーツにそっと手のひらを這わせた。
「お兄さま?」
 呼びかけたが、返事がない。指先にも、体温はふれなかった。
 ナナリーは耳を澄ませた。呼吸音がない。気配も探ったが、肌に伝わる空気の感覚は、その部屋に彼女以外の誰もいないことを示した。
「お兄さま、」
 いないことを知っていて、もう一度呼びかけた。当然、ルルーシュの応えはない。
 ナナリーは沈思する。本人たちは否定するが、近ごろめっきり仲よくなった、スザクと遊びに行ったのだろうか、と。しかし、そうであるにしても、眠っている彼女を一人残して兄が出て行くということはないだろう。どれだけスザクと親しくなったとしても、依然として、彼の優先順位は妹にあるのだ。
 そのはずだ。
 ナナリーは不安に襲われる。兄は、どこへ行ったのだろう。上体を起こして、首を巡らせる。
「お兄さま…」
 そのとき、重いものが摩擦する音が聞こえた。土蔵ではあり得ない音に、薄い夜着に包まれた肩が、先ほどとは違う意味で震えた。だれ、と無意識のうちに唇が動く。
「ナナリーさま?」
 しかし身構えた彼女に届いたのは、女の優しげな呼びかけだった。
 その持ち主を判別しかねて、ナナリーは黙ったまま首をすくめた。それから、彼女が誰であるか、なんという名であるかを思い出し、安堵して肩から緊張を落とした。
「あ…あ、咲世子さん。おはようございます」
「おはようございます」
 少し妙な声が出たので、咲世子はふと息を詰めたようだったが、しかし、何事もなかったかのように挨拶を返した。彼女の気遣いが申し訳なく、少し言い訳をつけ加える。
「…ごめんなさい。寝ぼけて、夢を見ていたみたいです。あの、お兄さまは…?」
 そわそわしているナナリーの問いに、彼女は微笑ましげに答えた。ベッドのほうへ歩み寄りながら、柔らかい声を向けてくる。
「起きてらっしゃいますよ。今朝は生徒会のほうへ行くと仰って、早いうちからお出かけですが…」
 ナナリーは首を傾げた。
「生徒会、ですか?」
「なんでも、出しものの練習をなさるとか」
 それを聞いた途端、はっきりと現実を把握し、ナナリーは呟いた。
「あ、お母さまのガニメデ…!」
 慌てて起き出そうとすると、咲世子が驚いた気配がした。そっと触れた手がナナリーの肩を押さえ、落ち着かせようとする。
「ナナリーさま、どうなさったんですか?」
「お兄さまのところへ行きたいんです」
 彼女の当惑に構わず、ナナリーは頑是ない子供のように訴えた。
 アッシュフォード学園には、学園祭が迫っていた。
 ルルーシュは、高等部の学園祭実行委員長であるミレイに頼まれて、出しものの一つである巨大ピザ作りのため、学園に保管されているナイトメアフレームを操縦してみせることになっていた。もっともそれは口実で、本当の目的は、ガニメデを兄妹に見せてやろうという、アッシュフォード家かミレイ個人の心遣いなのだろう。たしかに、ルルーシュもナナリーも、母の乗っていた機体が脚光を浴びるということで、常になく学園祭を楽しみにしている。
 そして今日は、朝早く、ルルーシュがガニメデに初搭乗する予定の日だったのだ。
 頼んで、いつもよりも慌ただしく着衣を整える。咲世子は、先ほどこぼした「母の」という言葉に反応してか、ナナリーの焦りにつき合った。本来なら手を出さないボタンがけを、彼女の指が手早くすませる。
 朝食は後で食べると約束して、グラウンドに出れば、車椅子を押す咲世子が短く声を上げた。金属が擦れる音が聞こえてくる、見えない方向へ目を向けて、ナナリーは精一杯に叫ぶ。
「お兄さま!」
 すると、しばらくして、金属音が止んだ。
 咲世子に押されて進むと、どうやらガニメデの近くで止まったらしく、聞き慣れた声が忙しく降ってきた。
「ナナリー! こら、朝食はどうしたんだ」
「後で食べます。それよりお兄さま、起こしてくれないなんて、ひどいです…」
 その思ったよりも随分と高い位置に驚き、反射的に答えながらも、そこでナナリーは動揺して兄との会話を打ち切った。後ろを振り仰ぐ。
「ごめんなさい、咲世子さん」
「え?」
 唐突に謝られ、咲世子が不思議そうな声を上げる。ナナリーは眉尻を下げた。
「ナイトメアが…」
「ああ!」
 ナナリーの言葉を、咲世子は驚くほど素早く遮った。
「いいえ、気になさることはございません、ナナリーさま。医療用のフレームと聞いておりますよ。それに、この…ガニメデでしたか? 正直に申し上げまして…その」
「間抜けだって言いたいんでしょう?」
 ルルーシュの声が笑いを含む。
 ナナリーは驚いて、笑声が降ってくる方向を仰いだ。
「そうなんですか、お兄さま? お母さまの機体なのに」
 皇妃となってから、マリアンヌは前線を退いていたが、その英雄的な逸話は、兄妹の耳に入ってきた。縦横無尽に戦場を飛び回ったということからつけられた「閃光の」という仰々しい二つ名に目を輝かせる子供たちを、本人はあいまいに微笑んで見ていただけだった。それでも、ガニメデに対する憧憬と懐古の思いは、二人のどちらにも培われている。
 幼いころに見せられた機体は、そう奇妙な形態ではなかったはずだった。ナナリーは、記憶の中におぼろげに残る紫色の機体を思い出そうとしたが、うまくいかなかった。
「母上のと言っても、基礎フレームだけ無理やり繋ぎ合わせたみたいなものだから…ああ、そうだ、ナナリーが昔持っていた人形の…なんだったかな、…ジムに似ているよ」
 妹の困惑を知ってか、兄が助けを出した。
 ルルーシュは記憶力がいい。ナナリーは、言われてようやく、気まぐれに離宮を訪れた姉にもらった人形を思い出す。たしか、手足が異様に細長く、ユーモラスな姿をしていたはずだった。
 それでもいまいち想像できないまま、ナナリーは呟いた。
「私も乗ってみたいな」
「え?」
 小さな声を、ルルーシュは聞き取れなかったようだった。機体から降りようとする気配を感じて、ナナリーは慌てる。
「あ…」
「ルルーシュさま。ナナリーさまが、その、ガニメデにお乗りになりたいそうですよ!」
 咲世子が代わりに、非礼にならない程度に声を張った。
 ルルーシュは、ああ、と納得した声を上げてから、しばらく沈黙する。
 たしなめられて終わりだろうと、ナナリーは肩を落とした。ルルーシュは、ひどく過保護なのだ。なまじ能力があるものだから、ナナリーに不便を感じさせず、多くのことを彼だけでこなしてしまう。それをさみしく思っていることは、彼には言えず、ナナリーは口を噤むだけだ。
 それでも少しの期待を胸に黙って待っていたナナリーに、結論を出した兄の声が届いた。
「…そうだな、咲世子さん、手伝ってもらえますか?」
「お兄さま!」
「わかりました」
 珍しい歓声に、咲世子がよろしかったですね、と声をかける。ナナリーは忙しく頷いた。
 大きなものが動く気配があり、少し遠方で、重い音がする。呼びかけに応えて、車椅子が押され、砂利に身体が上下に揺れた。スロープを上り、少し高い場所へと移動する。
「ナナリーさま、よろしいですか?」
「はい」
 返事をすると、両脇に腕を入れられ、少し頼りない動きで持ち上げられる。そこにもう一組の腕が添えられ、上半身に力がかかった。ルルーシュと咲世子が、息を詰める。自分の身体が中空を渡されるのを、息を潜めてナナリーは待った。
「すみません、咲世子さん。脚のほうを…ありがとうございます。ナナリー、左手を前に出して、俺の肩にかけて。…そう、大丈夫か?」
「…こう、ですか」
「うん、そのまま離さないようにね」
 太腿の裏がぐっと押し上げられ、兄の首に抱きつくようにして、ナナリーは彼の膝に乗り上げたようだった。いつの間にか随分差をつけて成長していた身体に、久方ぶりにしっかりと抱き込まれ、ナナリーは息をつく。
「…ありがとうございます。咲世子さん、お兄さま」
「どういたしまして」
「ああ。座席に座るけど、俺の上だと不満か?」
 咲世子が少し大きめの声で応え、慎重に体重を移動させながら、ルルーシュが訊いてきた。ナナリーは悪戯っぽく微笑む。
「いいえ、でも、重いですよ?」
「おまえはまだまだ羽根みたいに軽いよ」
 言いながら腰を落ち着けると、ルルーシュは、そっと乱れたスカートを直してくれたらしい。布ごしに、太腿を抱えて座り心地のいいように直され、少し恥ずかしかった。彼はいつも、ほとんど妹の性を意識していないようだったが、それは、彼が努めて鈍感になろうとしているためだとナナリーは知っていた。
 まだ近くに待機しているらしい咲世子に、離れるように指示してから、ルルーシュは妹の手をとった。ゆっくりと、身体の右前へ導く。
「これが操縦桿。ボタンを押したまま、ゆっくり手前に押してごらん」
 言われるままにすると、少しずつ、機体が浮上する感覚があった。土の匂いが遠くに離れる。沸き上がる不思議な浮遊感と緊張に、ナナリーは身体を強ばらせた。
 それを解くように、兄の手が、頭を撫でた。
「上手だよ、ナナリー」
「まあ、立たせただけなんでしょう?」
 過剰な褒め言葉に、ナナリーは含み笑いをこぼす。しかし、ルルーシュは真面目くさった声で反論した。
「いや、それが難しいんだ。おまえが… ナナリーは、俺より、これに乗るのがうまいかもしれないな」
 もし、乗れるような身体であったならば。兄が飲み込んだのだろう言葉を、ナナリーは正確に理解する。そして、失言に悔恨している様子も読み取り、声を上げて笑った。
「…ふふ、そうです。お兄さまなんて、コテンパンにしちゃいますよ」
「コテ…ああ、スザクか、おまえにそんなことを言ったのは」
 ルルーシュは苦笑した。怒る対象がいないためか、その声音は変わらず優しげだ。
「そうだな、俺の負けだよ、きっと。おまえは運動神経がよくて…母上も、…自分にそっくりだと笑ってらっしゃった」
 それきり、兄は少し黙った。
 ナナリーは、彼の思惟を妨げないよう、そっと頭を彼の肩にもたれさせた。決まった儀式のように、ルルーシュの手が、栗色の髪を撫でつける。いつの間にか遠慮がちに妹にふれるようになった兄だが、髪をさわるときの繊細さだけは、昔と変わらないままだった。
 瞼の裏でもう一つ感覚を閉じて、彼女はそれを受け入れる。研ぎ澄まされた世界の中、近くに兄の鼓動を、遠くに咲世子が静かに控えている気配を感じた。
 手のひらには、ガニメデの振動が伝わっている。
 次世代競争に落ちた機体。それに、次期皇位を巡る競争から落ちた自分たちが乗っている。それは世界がどうしようもなく優しくないことの証明に思えて、母と兄の気配を濃密に感じながらも、ナナリーは悲しんだ。
「…お兄さま。私、今朝、夢を見たんですよ。お母さまと、スザクさんの夢」
 ふとナナリーは呟いた。正確には、それは夢ではなかった。彼女にとっては白昼夢と同じだった。今傍にいる人々、背中に触れる兄や抱き起こしてくれた咲世子とは違い、実態のない、淡い幻だ。
「…どうしたんだ、急に。さみしいか?」
 ルルーシュの声は、甘い笑いと、僅かな寂寥を含んでいる。細い指がナナリーの髪に絡まり、柔らかい動きで、まだ少し乱れている部分を梳かしていく。
「少し、さみしいですけど…お兄さまがいますし、咲世子さんがいます」
 ルルーシュの腕が、少し強く、妹の腰を抱く。その痛みを心地よく受け取って、ナナリーはゆっくりと身体から力を抜いた。
「今が幸せだって、言いたかっただけです」
 ナナリーは微笑みを浮かべた。
 少し身じろいで背後を振り返り、さわってもいいですかと訊いて手を伸ばす。ルルーシュは無言のうちに肯定して、頼りなく揺れる指先に頬を差し出した。なめらかな肌をナナリーは慎重に辿り、それだけではどんな形をしているのかわからない唇を、掠めるようにふれた。
「ねえ、お兄さま。今、笑ってらっしゃいますか?」
「ああ、おまえが笑うから」
 ルルーシュはほとんど間を置くことなく応える。その声には、彼が時折潜ませる嘘はない。
 それに安堵すると同時に、もう記憶の底に沈んだ兄の屈託のない笑顔が見たくて、ナナリーはそっと瞼に力を込めた。今なら、世界が見えるかもしれないと思った。
 しかし、瞼は重く凍りついて動かなかった。
「ナナリー、そろそろ降りようか」
 そう言った兄の指の熱だけが、愛おしむように、冷たい覆いを柔らかく撫でた。

【ランダム2×3題 2-3 明け方の夢・レース(競争)】