傾国

悪魔の膝上

 開け放たれたドア枠に立つミレイの肩越しに、真剣な色を浮かべたその顔を見たとき、安堵とも緊張ともつかないものが胸中に生まれた。
「ルルーシュ…」
 声は低く潰れていた。スザクが今の事態を、ひどく重く受け止めていることが伝わる。ルルーシュは目を細め、頷いた。
「そこ、閉めてくれ」
 背後の扉を指し示すと、スザクは少しためらったが、一度だけ廊下のほうへ会釈して、静かに蝶番を引いた。その向こうに誰がいるのか、ルルーシュは知っていたが、スザクの非難する視線は無視した。この上秘密を明かせない人間を抱え込むのは、リスクが大きすぎた。
 扉が閉まったのを確認して、嘆息する。
 スザクはしばらく扉の向こうの気配を窺い、問題ないと判断したのか、ゆっくりと顔を上げた。
「ごめん、ルルーシュ。僕は」
「いいんだ、スザク」
 ルルーシュは素早く口を挟む。まずは、彼の言動をコントロールしなければならなかった。二人が幼年時代に面識を得ていることを、この場にいる幾人かは聞き及んでいるだろう。ランペルージ兄妹の境遇を、スザクが完全にごまかしおおせるとは思えない。早々に、ルルーシュの現在の「設定」を汲んでもらう必要があった。
 他人たちの視線を背中で意識して、背筋を自然に伸ばす。
「俺こそ、おまえに謝らないといけない」
「え?」
「スザク」
 名前を呼んで、濃い緑の双眸をじっと見つめる。幼いころに考えたサインの中には、ナナリーを気にして沈黙を促すものもあったが、唇に指を当てるという単純なもので、人目のある今は使えない。訝しげに見返してくるスザクに見えるように、慎重に口を動かした。日本語の発声法がありがたかった。口の形を幾度か変えるだけで、指示を伝えることができる。
 だまれ、という無声を正確に読み取れたのかはわからなかったが、スザクは口を閉じて、彼の言葉を待った。目配せして、それでいいと訴える。
「頼みがある。…嘘をついてほしいんだ。俺たちが皇族だと」
「…え?」
「今、俺たちがただの民間人だとばれたら、軍は人質を無視して事態を収めようとするかもしれない。そうしたら、ナナリーが」
「待ってくれ、ルルーシュ」
 スザクは手のひらを上げた。彼にしてはオーバーアクションだ。友人がひどく混乱していることはわかったが、説明を差し挟むことはできない。二人の中間点に立つミレイが気を揉んで、じりじりと指を擦り合わせている。
「ナナリーは… どういう状況にいるんだ?」
 意図してのことではないだろうが、スザクはルルーシュが望んでいたことを尋ねた。得たりと顎を引いて、眉尻を下げる。
「ナナリーは、ニーナの代わりに人質をかって出たんだ。それも、ただの無力な人間じゃなくて…皇族だと名乗って」
「でも、ナナリーは…」
「仕方なかったんだ」
 語調を強めると、スザクははっとして、口を噤んだ。指示を思い出したらしい。
「…人質の数が多すぎた。ナナリーは… 俺たちの名前が、一部の人間にはまだおぼえられていると考えているんだろう。死んだはずの皇族の兄妹が隠れて生きていたんだと、犯人に思いこませたんだ」
「それは、つまり…」
「犯人は、皇族の人質を手に入れたと思っている。ナナリーたちを救出しに来た、おまえたち軍人たちもだ」
 スザクはどんどん眉を寄せていく。その表情の中に、頑迷な正義感がよぎったことにルルーシュは気づいた。ルルーシュが嘘をついていて、スザクにその共有を迫ろうとしていることを悟ったのだろう。
「わかったよ、ルルーシュ」
 それでも、拒むことも責めることもせず、スザクは頷いた。
「僕に何ができるかはわからないけど… できるだけ君に協力する」
「助かる」
 ミレイが息をつく。背後では好意的でないかすかなざわめきが起こったが、スザクはそもそも彼らの存在を忘れかけているようだった。ただ、ルルーシュを強い視線で見つめている。
 ふと息をついて、ルルーシュは目を閉じた。幼い頃のようにその力を呵責なく委ねてくれるわけではなくとも、彼を得ることができるならば、不安の半分を負ってもらえる気がした。
「おまえは今、どんな立場なんだ?」
 あわよくばミレイが語った以上の情報を得ることができるのではないかと思ったのだが、スザクは首を横に振る。
「ここにいるだけで、部外者と変わらないよ。…技術部で、仕事をしてたんだけど。そこに、ここがテロに襲われたってことと、皇族が人質にとられたって連絡が入った。でも、実戦部隊じゃないから、事情がわからないまま、待機だけしている状態だ」
「それだけか?」
 スザクはちらりと、こちらの様子を窺っている他の生徒たちを見た。慎重に口を開く。
「…皇族の名前は聞いた。ナナリー・ヴィ・ブリタニア殿下を、テロリストが人質としてとらえているということだったから」
「そうか」
 どうやら、すんなりとルルーシュの思惑通りに事が進むわけではなさそうだった。
「そうだな、とりあえず… スザク。ナナリーを助けるまで、俺たちを皇族だと、扱ってほしいんだ。おまえの言葉が必要なわけじゃない、ただ、事情がわかっていないふりをして、俺たちが皇族ではないという事実を黙っていてくれたらいい」
「うん、わかった」
 スザクは素直に頷く。
「それから、学友の縁から、皇子と軍部の連絡係を仰せつかったとでも言ってくれ。とにかく、おまえが自由にこちらとあちらを行き来できるように…」
 もしそうなったとして、どうすればいいのか。ふとルルーシュは思考に詰まり、眉を寄せた。
 本当に、スザクを頼ることができるのだろうか。どこか昔と変わってしまった彼には気づいている。あの頃でさえ、スザクのことを完全に信じきったわけではなかった。それをできたのは、母に対してだけだった。
 スザクはブリタニア軍に属しているというのに、安易に彼を味方だと考えている自分に、ルルーシュは動揺する。ただ、スザクは、自分たち兄妹のために動いてくれるだろうと思った。あの頃と今とでは、まったく事情が異なるのだ。スザクは自分の身を自分で守らなければならず、そのためには、ふたりを切り捨てることも必要なのだ。
 渡されなかった連絡を語る彼の平然とした口調を思い出し、無意識に服の裾を引いた。
 不自然に口を閉ざしたルルーシュを見て、ミレイが首を傾げた。
「スザクくん。とりあえず、あなたの直接の上司が、何か知らないか聞いてみてくれないかしら。ロイド伯爵って言ったわよね?」
「え… あ、はい」
「うちを借りるとき、技術部の代表者になっていた方でしょ。貴族で軍部にいるってことは、それなりに、何か知ってるんじゃない?」
 スザクが窺う視線をよこす。しかし、ルルーシュは、それを受け止めることができなかった。
「どうでしょうか、殿下」
 ミレイが普段の彼女とはほど遠い、上滑りした声で尋ねる。ルルーシュの心に生まれた波紋を、彼女が敏感に察しているのがわかり、ルルーシュは声を絞り出した。
「…ああ、じゃあ、何かわかったら…」
「ルルーシュ」
 ふ、と気配を頬で感じ、気がついたときには、緑の目が自分をのぞき込んでいた。のけぞろうとする上体は、二の腕を掴んで引き留められる。生暖かい呼気が顎の先にかかり、そのまま頬を伝って耳の間近に吹き込まれた。肌に食い込む指先に、力が込められる。
「任せて。必ず、何か役に立つ情報を持ってくるから」
 低くそう言うと、彼はぱっと身を翻し、僅かに開けた扉の隙間から、猫科の生き物のようにするりと出て行った。