傾国

ゆりかご遊び

「おまえは指がきれいだ」
 そう言うと、ルルーシュは訝しげに首を傾げた。スザクよりもよほど日本人らしい、黒く真っ直ぐな髪が揺れる。
 蝉の声がそろそろ煩わしい季節だった。だだっ広い庭に面する縁側には、ちょうど日差しが照りつける時間帯だ。七月の黄色い光が、柱の傍らや風鈴の下に、黒い影を染みのように浮き立たせている。
 ルルーシュは、縁側の傍に立っていた。縁側を歩いてきたスザクは、いつも人のいない中庭に彼がいたことにぎょっとして、立ち止まった。それを不審げに見てから、ルルーシュは、傍に寄ってきた。その神経質そうな顔つきにもかかわらず、歩くのも覚束ない子供のような姿に、スザクは動揺し、思わず妙なことを口走ってしまったのだ。
 頬が紅潮する感覚に耐えながら、スザクは無造作に降ろされている彼の手を見て、指さした。ルルーシュはそろりと腕を上げて、本人はほとんど無意識なのだろうが、これでいいのかと問うように目で窺う。本人は決して認めないだろうが、短期間で日本語の習得をこなしたという彼は、自分の言葉に不安が残っているらしい。
 仕方なく、スザクは頷いた。
「そう、手。前に知っている女の人に、きれいな人がいて、その人の指もきれいだったんだ。でもおまえのほうがきれいかも、だから」
 言いながら、スザクは少しずつ恥ずかしくなり、言い切れないうちに黙った。
 ルルーシュは、それが褒め言葉とは思っていないのか、ただ眉を寄せた。意味は通じているはずなので、その提案を検討しているのだろう。気むずかしい少年なのだ。
 近頃彼は、きれい、という言葉をおぼえた。
 正確には、もともとおぼえていた単語の、使いどころを理解したのだ。庭の花樹や、世話をしてくれている女性の長い黒髪を見て、ぽつりと呟く。それはいつも、年上の女性が思わず頬を赤らめてしまうような、真摯な声音なのだ。スザクも一度、じっと目を見られて、その言葉を捧げられたことがある。思わず口ごもってしまったことに敗北感を感じて、その晩は、デザートのプリンを進呈した。不審そうな目で見てきたので、意図しているわけではないのだろう。
 スザクはその、彼の囁く響きが好きだった。彼につられるようにして、つい、同じ言葉を口にすることが増えた。その単語を、発するのには気負わないのに、受け取ると困惑するルルーシュが、見ていて愉快だということもある。もっとも今回は、スザクのほうが自滅してしまったわけだが。
 不意になまっ白い腕が差し出され、スザクは瞬いた。
「見てもいい」
 ルルーシュの発音はなめらかだ。まだ言葉少なだが、妹に話しかけているところを見ていると、本来、寡黙というわけでもないらしい。初対面では驚くほど達者な口をきいていたし、時折はスザクに論争をふっかけてくることもあるから、単にスザクと相対するときだけ、訥々と話すのかもしれない。もっとも、話をしているうちに、だんだんとその舌鋒は鋭くなり、よく回るようになるのだが。
 濃く明るい紫の瞳は、睨み付けるような鋭さである。彼の癖だ。はじめは敵視されているのだと勘違いしていたが、彼は単に、それを弛める術を知らないだけなのだった。そのことを知ってからは、喧嘩は減ったように思う。
「…うん」
 頷くと、無造作に、細い手首を掴む。光に照らされると、その腕はいっそう白かった。手を合わせると、ルルーシュのほうが指はほんの少し長くて、む、と口を引き結ぶ。小さな爪をさわり、少し強く押すと、甘い薄紅色がすうっと白くなった。指を引くと、また色を取り戻す。おもしろくなって、スザクは何度も、それを繰り返した。
 ルルーシュはむず痒いような顔をしている。
「もう、いいだろ」
 強い力で引かれて、細い腕はスザクの手から逃げた。それを少し名残惜しく見送り、そんな自分を振り切るように、スザクは鼻を鳴らした。
「それで、どうしたんだよ」
 客人の少年はきょとんとして、それから気まずそうにした。
 離れではなく枢木家の、廊下の真ん中である。スザクが麓の道場から引き上げてきたところに、ルルーシュは庭から顔を出したのだ。彼が彼の妹を置いてまで来る用はこの廊下にはないはずだから、スザクを待っていたのだろう。
「別に…」
 わかりきったことなのに、言葉を濁す少年に、スザクは内心で嘆息する。
 ルルーシュの無駄な矜持の高さは、同級生からおまえこそが導火線が短いと言われるスザクでさえ苛立たせる――というより、落ち着かない気分にさせる。
 ルルーシュの挙動には、常に張り詰めた糸を感じさせるものがある。その綱渡りのような不安感が、スザクにも伝染しているのかもしれなかった。もっとも、今は日本全体がそんな風なのだが。
 しばらく俯いていたルルーシュは、意を決したように顔を上げた。
「君は午後は、また、…あれをするのか?」
「あれ? ああ、道場か」
「……」
 不安を滲ませた顔で、ルルーシュはスザクを見る。
 彼はまだ、スザクの話のすべてを理解できるわけではない。スザクは、ブリタニア語などをおぼえることは御免だったが、彼らに対するときは、日本語はできるだけ理解しやすいように話している。ゆっくりと、順序立てて、正しい言葉で。極力心がけてはいるが、ルルーシュもナナリーも理解力が高かったので、スザクはたまに、彼らが日本語を習い始めて日が浅いということを忘れてしまう。
 スザクは慎重に言い直した。
「俺、道場での稽古は終わったぞ、今日は」
「うん、そう…稽古」
 発音しにくそうに言うと、ルルーシュは少しだけ、伸び上がるようにしてスザクに身を寄せた。
 彼はどうも、自分から遊びに誘うということができないらしい。だからそれは、彼の合図なのだ。三度に一度くらい、スザクは彼に意地悪く、それに気づかない振りをしたいという誘惑にかられる。そして実際に、十度に一度くらいは、無視をしもする。しかし今は、それほど険悪な気分でもなかった。妙なことを口走ったのが、気負いを消していたのかもしれない。
 珍しく素直に、スザクは切り出した。
「だから、午後は遊ぼう」
「あ…違う。ナナリーが」
 彼の口から出たいつもの名前に、スザクは片眉を上げる。
「何」
「ナナリーが少し、熱が出ていて。それで…あそこだと、だから」
「熱?」
 その単語を聞いた途端、頭にかっと血が上って、大きく嗄れた声が出る。ルルーシュが少し、肩を震わせた。それから、縋るように揺れる目で見上げてくる。
「…スザク。だから、タオルと布団を」
「それを早く言えよ! 今日は父さんも帰らないから、こっちに寝かせよう」
 スザクはすぐ真後ろの障子を開けた。そこは客間になっているのだ。今日は何かと構いつけてくる通いの家政婦もすでに帰っているから、スザクの権限で家に上げることができる。
「早く連れてこい」
「…うん」
 ルルーシュは数度瞬いてから、上目遣いになって頷いた。頬が少し紅い。緊張していたのか、単に暑さのせいか、白いこめかみを汗が一筋、ゆっくりと滑り落ちる。布団をのべるために踵を返そうとして、ふと振り返り、スザクは胴着の裾で、それを拭ってやった。

 家政婦の作り置きを分け合った昼食が終わり、薬を飲んだナナリーが寝息を深く沈めたのを見届けてから、ルルーシュはようやく腰を上げた。斜め後ろで正座して、兄妹の囁くような会話を聞くともなしに聞いていたスザクも立ち上がる。
 未練たらしく妹を見やるルルーシュの肩を、スザクは少し乱暴に押した。足裏を畳に引きずるようにする彼の歩みはぎこちない。本当は、ナナリーの傍についていたいのだろう。しかし、他でもないナナリー自身が、少し寝ていればきっと直るから、二人で遊んでくれ、と言ってきたのだった。渋る兄に、近くに人がいては気になる、とまでつけ加えて。
 悄然とするルルーシュに嘆息し、スザクは棚を探ると、いつかの探検で見つけた大降りの鈴を手にした。何かの土産らしく、振ると奇妙な音が鳴る。これを鳴らせば来るから、と言って渡すと、ナナリーは目を閉じたまま微笑んだ。
 二人で無言のまま部屋を出て、二度廊下の角を曲がってから、スザクは声を出した。
「どこに行く?」
 尋ねると、ルルーシュは首を横に振った。特に希望はない、ということだ。
 少し前までは、彼は二階の奥の物置が気に入りのようだったが、そこで見つけた道具を誤って壊してしまって以来、後ろめたさにか近づかないようになっている。積み重ねられた雑多なものを珍しげに見ている友人が気に入りだったスザクは、少しばかり残念だった。
 闊達な彼だが、さすがにナナリーが伏せっている今、はしゃぐ気分にはなれない。ルルーシュに希望を聞いて静かな遊びでもしようかと考えていると、彼は選択権を譲ってきた。
「あの鈴の音が聞こえるところならいい。君が決めろ」
 簡単に言われて、スザクは首を傾げる。それなら聴覚の優れた彼には、家の中でなら、かなり広い範囲に選択肢がある。
「――あ、そうだ」
 うん、と一つうなずき、スザクは走り出した。こういうとき、ルルーシュは逆らわない。従順な足音を背後に感じながら、スザクは思いついた場所へ急いだ。
 ナナリーが眠る部屋から三室ほど離れた客間だ。他の部屋に比べると狭いため、現在は使われていない。
 縁側から、開け放たれたままだった障子の間を通って畳を踏み、中へ入る。襖を開けると、白が重なっている。先ほどナナリーのために敷いた布団の分、真ん中よりも少し下に乱れができていた。
 手の届くそれを鷲づかみにして、ふと振り返り、スザクの手のあたりを不思議そうに見ているルルーシュに、靴下を脱ぐように指示した。そして彼がもたもたと言われた通りにしている間に、布団を引っ張り出す。一番下に積まれていた敷き布団だけ残して、他はすべて部屋の隅に重ねて置いた。
「この上、に行くぞ」
 ひょいと押入れの上の段に上がると、手を差し伸べる。ルルーシュは困惑してそれを眺めた後、土蔵にいたせいで少し汚れている服を見下ろした。スザクが促すと、ためらった後、そこここをぱたぱたとはたいてから、おとなしく掴んだ。力を込めて引き上げると、どうにか乗り上げてくる。
 大きく思えた押入は、二人で入るとすぐに余裕がなくなった。
 障子を開けた部屋の側面に押し入れがあるため、光はおぼろに押し入れの内へ入るだけだ。上を見上げると、天井裏に通じる上げ蓋がある。スザクにはそれも随分と興味をそそったが、今はこの、四角い空間だけで充分だった。
 スザクは窮屈な布団の上に足をつけて、尋ねた。
「なあ、これでベッドみたいじゃないか?」
「ベッド?」
 ルルーシュは慣れた単語を聞きつけて、スザクを見つめた。
「うん、そう」
「……」
 ルルーシュは布団を何度かはたいて、それがあまり湿り気を帯びていないこと、汚れていないことを確認して、そっと横たわった。
 狭い押入には、子供の身長も収まりきらない。靴下を脱いだ二本の足が端からはみ出して、揺れる。スザクは慌ててその足を掴み、中へ引き寄せた。邸内にいるのは彼らだけではないのだ。
「見つかっちゃうだろ。奥に入れよ」
「…わかった」
 スザクの思う秘密基地の心得を知らないルルーシュは、人はいないのに、と不思議そうだったが、寝転がったまま足を回収すると、素直に起き上がって寝る方向を変えた。しばらくじっとしては、何度もころりと体勢を変えるものだから、スザクは狭い中で身を縮める。抗議の声を上げようとしたところで、ルルーシュは呟いた。
「…ベッドじゃない」
 顔をしかめて、彼は否定した。スザクは少し残念に思う。今まで、ベッドで寝たことがないのだ。級友たちが羨ましいというわけではないが、布団を直に引くのと何か違うのか、興味はあった。前から、この上で寝れば気分が味わえるのではないかと、ねらっていたのだが。
 ルルーシュがわざわざ寝転んだのは、寝心地を確認するためだったらしい。律儀さに毒気を抜かれ、呆れるべきか笑うべきか迷い、結局スザクはどちらも撰ばずに沈黙した。
 ルルーシュは、先ほどスザクが見つけた天井裏への扉を見上げ、不思議そうに見つめている。
「あれ」
 腕を伸ばして、ひょいと指さす。
「どこにつながってるんだ?」
「さあ? まだ知らない」
 そう教えてから、スザクは、細い腕を捕らえた。少し目を見開いたルルーシュは、スザクの目に浮かぶ光を見て、少しうんざりした顔をする。またか、と言いたいのだろう。
「なあ、さわっていい?」
 ルルーシュは唇を尖らせた。
「いちいち、聞かなくていい。面倒くさい」
「誰だよ? そんな言葉を教えたの」
 ルルーシュの口から初めて聞く言葉に、スザクは目を見開く。勤勉な彼には、そんな言葉は似合わないと思った。もしかして、近所の人間にまた見つかったのだろうか。
「そんな言葉?」
「面倒くさい、って」
「ああ。君」
「え?」
 スザクは目を見張った。覚えがない。
「…うん、まあいいか」
 自分以外の人間と、接触がなかったのならいいのだ。
 本人の許可がもらえたのだから、好きなだけさわっていい。スザクは嬉々として、手のひらや指先を、ルルーシュの肌にぺたぺたと貼り始めた。彼の肌は肌理が細かく、体質なのか、多少の暑さでは汗にべたついたりしない。とは言え押し入れの中に籠もったのでは、さすがに薄く濡れていた。しかし、いつもなら気持ち悪く思うはずの肌が貼り付く感触が、やけにおもしろい。スザクは露出されている部分を何度もさすった。
 ルルーシュが辟易したように嘆息する。
「たくさんさわると、暑い…」
「あ、そうか」
 ちょっと休憩と、スザクは手を引っ込めた。横手にある、まだ積み重なっている布団を背もたれにして座り込むと、ちょうど寝転んでいるルルーシュと向かい合うようになった。
 ぼんやりと横たわっているルルーシュは、押入れが作る影の中に入って、白い肌を翳らせている。細い呼吸は目立たない。強い光を溜めた瞳が焦点を失っているのを見下ろして、スザクは言い知れない不安に表情を曇らせた。
「…、何?」
 凝視されているのに気づいて、瞳が少し動いた。それはどこか甘い速さで、紫がとろりと流れるようだ。鮮やかな色が融けて潤むのは、飴玉のようで、スザクは時折、彼の紫の味を想像する。
「おまえの目、みんなと違うな」
 同級生の女子にだって、たまに菓子をくれる上級生の女子にだって、こんなにきれいな瞳を持っている子はいない。
 ルルーシュは、自分の瞳の色を好きではないと言う。それならば、きれいになりたいといつも言っている彼女たちにやればいい、とスザクは思う。思ってから、否定する。これは、ルルーシュの瞳だから、意味があるのだ。
 しばらくその目でスザクを見つめた後、ルルーシュは無言で瞼を下ろした。
「あっ、おい!」
 憤慨して間の抜けた声を上げても、ルルーシュの双眸は覆われたままだ。長い睫が時折、じりじりと揺れる。
 口を結んで拗ねたという主張をしてから、彼には見えていないことに気づいて、スザクは標的を変えた。
「…おまえ耳のかたち、」
 きれいだな、と言いかけて、数時間前のことを思い出し、スザクはそれを言葉にはしなかった。
 ルルーシュは耳も白いが、腕や指に比べると、多少血の色が浮かんでいる。少し指を浮かせて輪郭をなぞると、柔らかな産毛がくすぐったい。同じように感じるのか、ルルーシュが身を捩った。
「全然違うな」
 耳殻をさわり、押し揉むと、指先に不思議な柔らかさが伝わった。人間の身体は不思議だ。目をきつくつむったルルーシュが、喉奥から出す声で抗議らしい音を出すのを聞き流し、スザクは空いている手で、自分の耳をさわってみた。なんとなく、違う気がする。
「うーん…」
 不満に唸り、次に目についた、黒い髪にさわる。
 左手で触れたスザクの髪は、稽古の後に入浴させられたこともあり、まだ湿っている。いつもは細くて丸まっていて、元の癖以外を受けつけない。ブリタニア人ではあるまいし、と言われることも多くて、好いていなかった。ルルーシュたちに会ってからは、そんな言葉も少しずつ気にならなくなっていたが、それでも自慢する気にはなれない。
 右手の先にある黒い髪は、指で梳くと流れる。少し固くて、自分と同じように癖がきついところは、ルルーシュらしい、とスザクは思う。深くに差し込んだ指先に、頭皮に滲んだ汗が感じられた。
「髪も違う。俺は自分の嫌いだ。でもちょっとナナリーに似てるかな」
「…ナナリー?」
 まだ頑なに目を閉じているルルーシュが、妹の名前を繰り返す。
「そうだよ。おまえのはナナリーのと違う。髪は、おまえより俺のほうが似てるよな。俺のは母さんに似てるって…」
 ひゅっと喉が鳴る音が聞こえて、スザクは手を止めて下を見た。
 しかし、何かが視界に映る前に、手の甲に触れたルルーシュの肌が孕む熱に、息を呑んだ。慌てて見ると、ルルーシュは、堪えるように唇を結んで噛んでいた。薄く目を開けて、スザクにそれが知れたと悟った瞬間、彼の真っ赤になった目尻が水気を帯びた。何かを堪えて早くなった呼吸音が、大きく速くなって押入れを満たす。
「えっ、えっ?」
 スザクはぽかんと口を開けた。
「な…泣いてる? なんで?」
 あまりに予想外のことに、間抜けなことを口走る。
 鋭い声が上がるが、それはスザクには理解できない言語で、それでも彼の性格から、言いたいことは想像がついた。泣いていない、と反論したのだろう。たしかに、涙はまだこぼれていない。
 ルルーシュは目を閉じて顔を逸らし、額を布団に擦りつけた。黒い髪が短く散らばり、目元を隠す。
 どうしていいかわからず、スザクは何度も、彼の名前を呼んだ。途中で、うるさい、と掠れた声が返り、それもやめる。押入の中には、ひくつく喉の音だけが響いていた。
 やがて落ち着いて顔を上げたルルーシュは、目元の水気を、痛々しいくらいにひどく、粗い布で拭きさっていた。少しささくれたように見える肌に、スザクは手を伸ばしたが、鬱陶しげに振り払われる。それでも諦めずに、今度は髪にさわった。乱れたそれに手櫛を入れると、ルルーシュは抵抗を諦めて、大人しく受ける。泣くのを堪えて疲れたのだろう。
「…ナナリーと僕が違うのは、別におかしいことじゃないんだ」
 少し引きつった声で、彼は呟いた。
「男と女だし。でも、肌の色とか、一緒なんだからな」
「肌の色だけなのかよ」
 思わずスザクが茶々を入れると、ルルーシュは目を伏せた。力なく腕を上げ、髪に差し込まれたままのスザクの手をもう一度払った。
「違う…」
 その悄然とした様子に、スザクはふと思い当たった。同じだが、口に出しづらいもの。それに気づいたとき、どこかへ行ったはずの混乱がよみがえって、スザクはうろたえた。
「あ…」
 何か言おうにも、言葉が浮かばない。まだ見たことのない少女の瞳が、二つの黒くぼやけた穴になって、スザクの脳裏のナナリーの瞼に重なった。
「どれだけ好きでも、似てるところと違うところがあるのが当たり前なんだって、…母上も言っていた」
「わ、わかったって」
 スザクは彼を遮った。ルルーシュが自ら痛い水の中へ分け入ったことに気づいたからだった。
 まだ完全に心を許さない相手に泣いた理由を悟られたことに気づいて、彼は余計に落ち込んだようだった。顔を背けたまま、ゆっくりと身体を起こす。服についた皺を見下ろすと、それが移ってきたように、鼻の頭に皺を寄せた。
「…おまえと違うのだって、別に、おかしいことじゃないんだからな」
 為す術なく首を縦に振っていたスザクは、わかった、と繰り返しただけだった。とにかくルルーシュを、いつもの生意気な少年に戻してやりたかったのだ。彼のためにも、自分のためにも。だから、ルルーシュの言葉はすべて、受け止めるつもりだった。
 そうして一度流して、ふと、引っかかりに気づく。
 ルルーシュが泣いた衝撃で、断片になっていた会話を思い返し、スザクははっとした。あっと声を上げ、乱れた前髪の隙間から向けられた視線を、ぱちりととらえる。それはまるで、一足飛びに難問の答えを見つけた瞬間のようだった。
「…なんだ、おまえ、俺のこと好きなんだな!」
「――はァ!?」
 容赦ない嘲りを込めた声とともにうろんげな視線を向けると、赤い目のルルーシュは鼻を鳴らした。すでに常の調子を取り戻そうとしている。それは多分に、スザクの突拍子のない言葉が影響しているに違いなかった。だがもう、スザクは彼の様子に頓着するよりも、新しい発見に浮ついていた。
「僕が好きなのは、ナナリーだ」
「知ってる。でも、好きなのって、ひとつじゃないだろ?」
「それは…」
 じっと目を見ると、訝しげに眇められていたそれが、次第に泳ぎはじめた。自分の失言を思い起こしたようだった。紫が逃げるのを、スザクは下から掬い上げるように見上げる。また視線が合って、ルルーシュの口の端がかすかに開いた。
「ルルーシュ?」
「……」
「俺のこと好きか?」
「……」
「好きだろ?」
 ルルーシュは唇を僅かに動かし、言葉を探している。
 答えのわかっている問いを投げかけることがこんなにも甘い優越感を呼び起こすなど、そして自分の問いに相手が何一つ言い返せないことがこんなにも加虐的な気分にさせることなど、スザクは知らなかった。自分がそんな心境にあることを理解もできず、ただ、さっきまでの動揺も忘れて調子に乗った。
 にじり寄ると、ルルーシュは耳朶を紅くした。樟脳の香気に入り混じった薄い汗の匂いに、スザクはさらに顔を寄せる。珍しい昆虫を見つけて、それを手中にする目前のように、ひどく興奮していた。
「なあなあ」
「ば、ばかじゃないか」
 ようやくルルーシュは口を開いたが、その言葉には、いつもの力がなかった。
「そんなこと聞いてないぞ。嫌いなのか」
「なんで…」
 ルルーシュは困惑の目を向け、少し思案するようだった。その逡巡を掴み、スザクは意地悪く眉尻を下げた。笑いを堪えようと口元を引き締めると、至って情けない様になったが、この場合は好都合だった。ルルーシュは、スザクの表情に、目に見えて動揺したからだ。
 その表情を保ったまま、声のトーンを落とす。
「嫌いなのか…」
「や……そんな……」
 不明瞭に呟いて、彼は、スザクの顔を見ないですむよう、ますます顔を俯けた。口中でもそもそと何かを呟き、何度か首を横に振る。その仕草から、彼がまた幾通りもの無駄な思考を巡らせ、逃げ道を探していることが窺えたが、スザクはただ、黙って待っていた。それがもっとも効果的な方法だと知っていたからだ。
 やがてルルーシュは、諦念を滲ませた。悔しげにスザクを睨み上げてくる。それでもその双眸には、譲歩してやったのだという色がありありと浮かんでいた。
「…ナナリーの、次の次の次…くらいだからな」
 かなりの粘りの後、憎らしげに、それでも願った言葉をよこしたルルーシュに、スザクは内心快哉を叫ぶ。彼の中で起こったのだろう、譲歩の配分を巡るやりとりになど興味はない。そんなものは、本人にしか重要でないのだ。ただ、彼のどこか一部、柔らかく大切な部分を支配したことをはっきりと悟り、それがたまらなく快感だった。
「ふうぅん」
 わざとらしく伸びた鼻声で頷くと、ルルーシュは一瞬、大きく目を見張った。それはたしかに、傷ついたような表情だった。
 その理由はわからなかったが、それを見て、すっと熱が引いた。スザクはようやく、舞い上がっていた自分を恥じる余裕を取り戻す。そうして気がついてみると、自分がずいぶんとだらしなく、卑しい顔をしているのに気づき、慌てて口を噤んだ。緩んだ筋肉に渇を入れ、ぶっきらぼうな声をつくる。
「ナナリーの次って、誰だよ」
 ルルーシュはまじまじとスザクの表情の変化を見つめ、混乱していたようだったが、問いかけに反応して瞬き、ぽつりと呟いた。
「もういない」
 寂しい声だった。
 スザクは沈黙した。
 ルルーシュの紫の瞳はまた少し潤んでいて、幼い気持ちでかわいそうだと思うのに、頬が熱くなった。ナナリーの熱が移ったのだろうか。背骨が震えて、スザクは、自分が病気になってしまったのではないかと疑った。こんなにも、おかしな衝動を覚えるのだから。
 突然襲ったその感情を、スザクはまだはっきりとは知らず、ルルーシュを見つめ返すことしかできない。
 そのとき、不意に日が陰った。
 暗がりが押入の中に射し込み、ルルーシュの頬を薄墨で掃いたように染めた。僅かな光を得て、紫が小さな湖のように光る。
 スザクは後ろ手に、押入の扉を探った。無意識の動作だった。開いたままの襖が、無性に恐ろしかったのだ。内側からの取っ掛かりのない扉は、深く爪を切った指先には捕まえられなかったが、かたりと立て付けをゆがませる。
 それに紛れて、耳に、音が届いた。錆び付いた金属が打ち鳴らされる音だ。あの鈴だ。彼女が兄を呼んでいるのだ。
 ルルーシュにはまだ聞こえていないようで、彼は小首を傾げ、スザクを見ている。紫の瞳が、腹の奥底に眠る何かを絡め取る。焦燥感が強まり、スザクは身を縮めた。胸の奥が締め付けられて痛い。
「み… 見つかる、ルルーシュ」
「え?」
 薄い唇は殊更ゆっくりと動く。睫毛が重なって、擦れながら離れていくささやかな動きまで、見て取れるほど、世界が遅かった。スザクは叫び出しそうになり、それを抑えるために、細い手首を掴んだ。驚くルルーシュを引き寄せる。
「何、スザク、」
「だめだルルーシュ、おまえは」
 隠さなければ、きっと。

 夜半すぎ、ふと目が覚めたスザクは、首の痛みに顔をしかめた。ソファの背もたれに預けていた頭を起こし、ぐるりと巡らせてから室内を見渡したところで、昨晩ルルーシュと話すうちに寝入ってしまったことを知る。部屋にはまだ明かりが点いているが、動く影はない。
 宵っ張りのルルーシュは、スザクより意識がはっきりしていたのか、どうにかベッドに辿り着いたらしかった。頭は枕の上に載せてあり、素足もシーツの上へ運んでいる。それでも服装は昨日見たそのままで、掛布もかぶらずにいた。そこで限界が訪れたのだろう。
 彼の気遣いか、スザクの制服の上着は脱がされ、肩にはキルト地の掛布がかぶせられていた。ベルトが外されていたのにはぎょっとしたが、下衣は身につけたままだった。女と泊まったわけでもないのに、自分が何にそんなに焦ったのかわからず、苦笑する。
 眠るルルーシュの側へと寄っていくと、彼はすました顔で寝入っていた。
 寝息はとても静かで、彼のあえかに開いた唇が触れる、重なるシーツに吸い込まれてしまう。薄い唇は乾いて、かさついている。サイドテーブルの引き出しからクリームを取り出し、蓋を開こうとして、やめてそのまま枕元に投げた。耳のすぐ隣に落ちた硬いものに気づかず、細い首は淡々と脈打っている。
 寝台の端に腰を下ろす。慎重にしたはずだったが、軋む音はずいぶんと大きく聞こえた。それを耳に入れたらしい。寝息が緩やかに乱れた。
 「…ん」
 ルルーシュは重そうに瞼を上げ、すぐにまた閉じた。数秒後、またゆっくりと睫毛をふるわせ、ほとんど閉じているのと変わらないほどに細く目を開ける。
「スザクか… どうした」
 視線を合わせないで、ルルーシュは囁いた。
「何か、あったのか」
 ぐしゃぐしゃになった髪を枕にこすりつけながら、ルルーシュは口内で舌を絡ませる。よく見ると、瞼が少し腫れているのがわかった。煙る睫毛で、切望したこともある色は見あたらない。
「いいや、何も」
 スザクは低い声を落とし、そっと彼の傍らに腰を寄せた。ルルーシュは芋虫のように鈍重に腰を動かし、ベッドの奥へと寝返りを打った。つられて皺をつくるシーツを、掴んで引き留める。中途半端に転がったルルーシュは、横を向いたまま静止した。いつの間にか閉じていた瞼が、また少しだけ開けられる。
「今、…起きる」
「いいよ、寝ていて」
「でも…」
 言いかけるのを、背中を押して、強引に黙らせる。
 赤ん坊を寝かしつけるように肩を叩いてやると、ルルーシュははじめ鬱陶しそうに眉を寄せていたが、やがて、寝息を深くした。スザクに無防備に頬をさらして、緩く唇を開く。頬に刺さっている髪をどけてやると、白い額が顕わになった。寝顔は人を幼く見せるというが、ルルーシュもその例に漏れないようだ。
 スザクは微笑んで、ルルーシュが身体の下へと引き込んだシーツを掴む。風を受けた帆布のようにまろやかな輪郭を描いて、それは痩躯を包み込んだ。薄い生地が、穏やかに上下するルルーシュの身体の線を浮き上がらせる。
「そのままでいいんだ」
 もう答えない彼を見下ろして、目を細めた。
 幼いころ感じた、自覚さえできなかった不安なざわめきを、今のスザクは少し理解している。稀な生き物に遭遇して、それに魅入るとき、人はあんな風に戦慄するのだ。不安混じりの興奮を持て余して、か細かった彼を随分とひどい目に遭わせたものだと、思い返して苦笑した。
 あのころいくつも負わせた傷は、色の痕さえ残さず消えたらしい。心配していたのに、そう聞くと惜しい。記憶を辿って二の腕を撫でさすると、ルルーシュは緩慢に振り払って身じろいだ。
「…あつい、…」
 囁いて、むずがる。不満げな唇が懐かしかった。少し子どもっぽいその仕草は、ルルーシュがただの人間だと感じられて、スザクを安堵させる。
 懲りずに肌に触れると、温度のない、さらりとした質感が指先に伝わった。首筋に鼻を埋め、舌を這わせて軽く噛むと、慣れた味がして、心が落ち着いた。五感で得るものはあまりにも確かで、スザクはいつも心の警告を無視してそれに縋ってしまう。
 また威嚇の唸り声を発して腰を捩ったルルーシュから身を起こし、眠るルルーシュを見下ろした。
 目の裏がじわりと熱を孕んだ。奥歯を噛みしめて、シーツをさらに引き出し、肩を巻き込む。四方から掻き集めた薄い覆いに、頼りない身体は、すべて埋もれてしまった。
 スザクは薄い胸の前に手繰り寄せた布の端を握り込んだ。戒められて身動きがとれないルルーシュは、表情を歪めている。それでも構わず、手に力を込める。
「…ルルーシュ、」
 何度も言いかけた言葉を飲み込んだ。落ちた沈黙は間延びして、いたずらに時間だけが過ぎていく。停滞に焦る気持ちと、その停滞こそを望む気持ちが、せめぎ合ってスザクを苦しめる。
「だめだよルルーシュ、君は」
 血の気の引いた拳が震える。この手を、幼い日のように、ためらいなく引き寄せることはもうできない。彼に知られないように外側を囲い込んで、ただ、囁くことしかできない。
「君は、ずっと、…」
 スザクは無力に唇を噛み、喉の奥に言葉をすり潰した。
 やがて、時計の針が回る音を数えて手を放すと、ルルーシュの眉間の皺がふと緩む。かがみこんで、妹に似て淡く膨らんだ瞼を軽く撫でてから、スザクは立ち上がった。点ったままの明かりを消す。
 降りた暗闇は彼が思ったよりも深く、白さえ暗く沈んで見えた。振り返ると、ルルーシュはベッドに同化していた。薄闇にくるまれて静かに眠っている。
 その足下に身を寄せて丸くなり、スザクはそっと目を閉じた。

【ランダム2×3題 2-1 間違い探し・幼い日】