傾国

わたしの幽霊

 空が少しずつ桃色に染まっていく時刻、アッシュフォード学園の、広いが地味な生徒会室の机上に、企画書があった。
 机上は珍しくきれいに片づけられ、ぽっかりと開いた面には、二枚の紙がある。どちらも、何かのリストアップだった。その一枚目、ずらりと並んだ活字の中盤、少し下あたりに、赤いペンで丸がつけられていた。その中には、「季節の仮装・怪奇パーティ」とある。横には、「肝試し? ホラーハウス?」という手書きの註釈があり、その下には赤いラインが引かれていた。
 いつの間にこんな企画が通されたのか。カレンにはまったく記憶がない。してみると、病欠していた間に、他のメンバーが立案したのだろう。ルルーシュが以前話したお祭り好きという言葉は、猫祭りで実感させられたが、まさかこんなに早く次の企画が立てられるとは思っていなかった。
「スザク、こんにゃくはやめろよ」
 ルルーシュがまずそう言ったので、生徒会の面々はきょとんとした。
「『こんにゃく』って何?」
 シャーリーが不思議そうに尋ねる。他のメンバーも同様に首を傾げていたが、東洋の知識にかけては日本育ちを除けば他の追随を許さない生徒会長が、ぽんと手を打った。
「あ、あれでしょう。柔らかくて弾力のある、灰色に濁った食べ物」
「会長さん、詳しいんですね」
 スザクが感嘆の声を上げる。
「んふ、当然」
 ミレイは豊かな胸を反らす。リヴァルがうわおお、と彼女に届かない程度の小声で、間延びした歓声を上げた。幸いにもそれを、シャーリーの上げた声がかき消す。
「ちょっとちょっと、全然わかんないですよ、その説明じゃ。お店で見かけたこともないよ」
 言葉の半ばから、キーボードを叩く音が鳴る。ニーナがネットで検索したのだ。
「ブリタニアでは、名前がついてないみたい。"Paste made from the arum root"だって。そうでなければ、"Devil's tongue jelly"」
 ぞっとする名称である。
「画像ある?」
 会長の問いかけに優秀な書記はうなずき、少し椅子を引いた。ミレイは椅子ごと移動し、彼女の傍らから画面を覗き込む。シャーリーとリヴァルがそれに続こうと立ち上がり、カレンも仕方なく腰を上げた。
「なんだか、くらげが固くなったのみたいね」
「おいしくないゼリーみたい」
 画面に出された写真を、スザクとルルーシュ以外の皆が覗き込む。カレンはその外野から、控えめに確認した。見慣れた――見慣れていた食べ物が、ざるの上に置いてある画像だった。ページを制作したのはブリタニア人で、旅先で見かけた珍しい食べ物を展示するサイトのようだった。カレンは無感動にそれを見ながら、この制作者が、今、このページにどんな感情を持っているのだろうかと考えた。
 全員が再び着席してから、シャーリーが首を傾げた。
「それで、どうしてこんにゃくが関係あるの?」
「お化け屋敷で、僕らはよく、こんにゃくを使ったんです。釣りの餌みたいにこんにゃくをつけて、暗がりから、通る人の首筋に、こう」
 スザクが簡単に振りをしてみせた。
「ああー、なるほどぉ。ぞっとしそうね」
「どうして駄目なの、ルルーシュ?」
 これがないと始まらない、と言いたげな顔で、スザクが友人を顧みる。ルルーシュは苦笑した。
「ブリタニアでは馴染みがない。お前が思ってるより、気味悪がられるぞ」
 シャーリーとリヴァル、ニーナが、大きく頷いてその言葉に同意した。
「想像しただけで、気持ち悪い」
「おもしろそうだけどねー」
 ミレイは残念そうである。
 スザクは首を傾げ、それから微笑んだ。
「そうか、ありがとう、ルルーシュ」
 その言葉で、はじめてカレンは、彼がスザクに気を遣って提言したのだと気づいた。
 そして、「怪奇な仮装」と言われたとき、自分が真っ先に思いついたのが、日本の伝統的な幽霊の姿だったと気づいて、カレンは肝を冷やした。スザクのことを馬鹿にできない。
 東洋通のミレイのおかげか、たまに日本文化に精通しすぎた発言をしても、今まであまり怪しまれずに来られた。しかし、これからはより一層、気をつけるべきだろう。先日の河口湖の事件や、多発する黒の騎士団の事件によって、ブリタニア人のナンバーズへの警戒心は強くなっている。いつ、おかしな輩がカレンの秘密に辿り着いてもおかしくない。
 スザクは、いきなりのルルーシュへの礼に戸惑う面々に構わず、発言を続けた。
「えっと、馴染みのあるものならいいんだよね? じゃあ、生卵を襟首から…」
 シャーリーが口をぽかんと開き、リヴァルの頬が引きつった。ニーナのうなじには鳥肌が立ち、恐怖を湛えた瞳がスザクを見ていた。カレンも思考を止め、その賢い犬のような容貌を凝視した。ルルーシュの表情は窺えないが、ミレイでさえ笑顔が少し固まったように見えた。全員が、同じ不愉快な想像を巡らせたことは、疑いない。
 ――誰も気づかなかった親切に礼を言っておいて、友人の忠告の意味をまったく理解していないとしか思えない発言だった。
 スザクはふと、眉を寄せた。
「…もったいないですね」
 その言葉に、一同は胸をなで下ろした。生卵が背中と衣服の間で撹拌されるなど、生理的にも衛生的にも耐え難い。
「氷をビニール袋に入れるとか、それくらいなら…」
 ニーナが控えめに発言する。ミレイがそれに飛びついた。
「あぁ、いいんじゃない? ちょっとホラー度は下がるけど、仕方ないか」
「そうですね、名案です」
 どうにか無難なところに収まり、常識人のシャーリーが殊更に安堵の様子を見せた。ミレイは、却下してみるとその案が惜しく思えるのか、未練ありげな顔をしている。
 リヴァルが後頭部で腕を組み、慨嘆した。
「けど、イレブンって、変な発想するんだなあ」
「たまにこっちの遊園地で見かけるけど、イレブンのゴーストって、ブリタニアのと全然違うよね」
「そうそう、なんか、変な甲冑に、矢が突き刺さってたりとか…」
「あら、そっち? 一番有名なのは、あれでしょ」
 ミレイが人差し指を立て、それを見たルルーシュが頷く。
「あれ、ですね。そう言えばカレンは、あの白い幽霊の着物を着たら、怖くて似合いそうだけどな」
「私?」
 ルルーシュの唐突な言葉に、カレンは目を見開いた。慌てて見ると、彼はこめかみに指を当てて思案している。
「なんて言ったか、ええと、あの病弱そうな…」
「お岩さんとか、お菊さんとか? ルルーシュ、失礼だよ…」
 スザクが苦笑した。
 自分が考えていたことを言い当てたその言葉に含みを感じ、カレンは素早く、ミレイを窺う。この話題を振ったのは彼女だし、カレンが日本の血を引き、ブリタニアよりも日本の文化に親しみがあることを知っているのも、彼女だけである。まさか、副会長で後輩で当事者のクラスメイトである、というだけの理由で、他人に秘密を話すような人ではないと思うが――
 視線の先で、彼女は染み一つないうつくしい肌に動揺の影一つ落とさず、皆と笑っていた。感謝し、安堵すると同時に少しぞっとして、カレンは左手で、右の二の腕をさすった。大事なエースの腕なのだ。
「…風邪を引いてしまうわ」
「そんな露出の多い服なのかよ?」
 リヴァルがにやにやと笑う。
「違うよ、薄手の着物を一枚着るだけだから」
「ああ、そりゃ辛いわ」
 季節はもう冬に近い。病弱な少女がそんな薄着で、風邪を引かないわけがないだろう。
 ルルーシュは自分で言い出したくせに、興味なさげに手元のペンを弄った。
「まあ、赤毛に白い着物の幽霊なんて間抜けだ。あれは黒髪だから怖いんだろうな」
 その言葉に、カレンは密かに傷ついた。ブリタニア人の形質をはっきりと宿す髪色は、彼女にとってはコンプレックスだった。咄嗟に何も言えないくらいには。
 しかし、ルルーシュの言葉に対する反撃は、意外なところから為された。
「じゃあ、ルルーシュやってみる?」
 スザクの提案に彼は半眼になった。
「断る。あれは、女のゴーストだろう」
「随分、日本の文化に詳しいのね」
 思わずカレンは口を挟んだ。イレブンでなく日本と言ってしまったことに気づき、すぐにしまったと思ったが、誰も不自然を感じていないようだ。スザクに対する気遣いととられたのかもしれない。
 ルルーシュは肩をすくめて答えた。
「これが友人だし、会長も東洋通だしね」
「…それだけ?」
 ルルーシュはちらりと視線をこちらへ寄越した。
「それだけ」
「ルルーシュってさ、なんか時々カレンにだけ、微妙に気取った喋り方するよな。もしかしてもしかするの?」
 リヴァルの八割が愉快犯的な言葉に、シャーリーが色めき立った。彼女はまだ、カレンがこの少年に好意を抱いていると疑っているのだろうか。その隣で、スザクが困ったように、眉尻を下げている。
 枢木スザク。おもねったブリタニア人にも、裏切った日本人にも忌避される、ルルーシュ・ランペルージの友人。カレンをからかい、日本人を嘲るその口で、彼は彼をかばった。
 ――私には、私をかばう人はいない。それに、いらない。
「…あなた案外、過保護なんじゃない? 私、そういう人、苦手なの」
「ぅえええっ?」
 シャーリーが珍妙な声を上げ、他の面々が、気の毒げな顔で彼女から視線を逸らす。
 繋がらないカレンの言葉に、ルルーシュは肩をすくめただけだった。
「はいはいはーい、脱線しないのー。じゃあ、各自仮装を明日までに決めてきてね!」
 ミレイの力強く明るい声が、その場に漂うばらけた雰囲気を、掬いあげるようにして纏めた。

「ゼロ、幽霊と聞いたら、何を思い浮かべますか?」
 時々、ゼロとカレンは、二人で取り残されることがある。ゼロはいつも一人だが、カレンは新しい団員たちになじめなかった。彼女がゼロに、静かに心酔していることは誰もが感じていたから、扇たちはときに、カレンに気を遣った。いつもはその時間に、現在のレジスタンスやゲットーの状況を話し合うことや、ただ沈黙することもあったが、今日、カレンの口から滑り出た言葉はそれだった。
 雑談に交わされる質問だ。叱咤されるかと思ったが、ゼロが出したのはかすかに笑声を乗せた声だった。
「突然だな」
 ゼロの表情は知れない。鈍く光を弾く仮面は、見慣れた今では、ただ不気味さを強調し、笑えない。
 カレンは気圧され、両手を握りしめた。やがて仮面の奥から、低い声が漏れた。
「たとえば日本人は皆、ハーフだ」
 押し殺した声は淡々と呟く。彼女の中で禁じられた言葉に、カレンは息を呑んだ。ゼロは彼女の素性を知っているのだろうか? こちらは、彼のことを何も知らないというのに。しかし次に続く言葉で、その懸念だけは払拭された。
「輝かしい過去と、惨めな現在との間で、うずくまっている。どちらか一方だけを受け入れることができずに。カレン、君もだ」
「…では、あなたは? ゼロ」
 はぐらかされている、と思いながら、カレンは問いを重ねる。
「君は私にはなれない。私が君になれないように。カレン、常に、自分が日本人であること、迫害される側であることを忘れるな」
 ゼロの言葉には、いつも、重みがある。それは多くのものを、少ない言葉に乗せるからだ。その上、伝えきれないことまでを噛み砕くことをしないから、それをすべては受けとめきれず、カレンは困惑するしかない。
「いつも、忘れていません…」
 ゼロは、数秒、カレンを見つめた。実際には、視線をどこへやっているのかわからないが、そのような間をおいた。それは、本当に彼女の言葉が実践されているのか、見透かしているかのようだった。
 ふと、カレンは、生徒会室での油断を思い出した。
 もしあの少年が、自分の素性を知っているのだとしたら。彼は、彼だけでなく、彼女のこともかばったのかもしれない。彼が、カレンの素性を知っている、可能性はなくはない。シュタットフェルト家が慎重に隠してはいるが、手間を掛けて調べれば、辿り着かない事実ではないのだ。もっとも、そのようなことを彼がする、理由はないのだが、
 ――もしかして…
 しかし彼女のその思考は、ゼロの言葉に簡単に乱され、散った。
「――私はさっきの君の質問に答えているんだ、カレン。君たちは日本人で、すべからくブリタニアの暴力とのハーフだ、そして」
 ゼロは立ち上がり、悪役さながらに、マントを優雅に翻した。数瞬、彼が纏う黒い布地は輪郭を失い、カレンは彼の首だけが浮いているような錯覚を起こす。幻惑の感覚が、足下をふらつかせる。
「幽霊は私だ」

【ランダム2×3題 1-1 幽霊・ハーフ】