傾国

あの庭は明るかった

 コーネリアはある離宮の近くを歩いていた。
 暇だったわけではない。剣術の訓練場に、ボタンを落としたからである。一つくらい、と思わないでもないが、それを指摘したのは妹だった。使命感に満ちた目をして探すと言い張る彼女を押しとどめるために、渋々やって来たのだ。
 その離宮の庭には、明るい色合いの花が多い。三人の園丁がおり、彼ら彼女らが協議した末で、できるだけ様々な色彩の花が植えられている。この離宮をよく訪れる女性が南方の出身なので、その心を慰めるため、彼女の故郷の花が慎重に保護されているのだった。コーネリアは彼女のことをよく知らないが、おそろしく我が儘で、浪費家であるということはわかった。たしか息子と娘が一人ずついたはずで、そのうちどちらかは、すでにいない。
 ここを通るのは、訓練場への近道であることと、離宮の管理者であるその女が、彼女の母より身分も権勢も劣っているためだった。多少庭園を荒らしたところで、咎めはない。
 庭は乱雑だった。赤い花が咲いているかと思えば、その下には白い花が咲いている。かと思えば傍らにはオレンジや薄紫の花がある。花壇や生垣、目立たぬように隠されたプランターの隅々に至るまで、溢れんばかりの華やかさが充満していた。
 コーネリアが驚いたのは、ここに薔薇がないことだった。ブリタニアの国花であり、皇族がもっとも好む花は、見回した範囲に一輪もない。そこに、不愉快とともに何か別のものを感じて、彼女は眉をひそめた。
 広い庭園は三人では行き届かないのか、時折は見苦しい茂みや、ごみを見かけた。整理され、計算されたものを好むコーネリアには、あまり居心地のいい場所ではない。
 その庭の一角、黄色い花がこぼれるように咲く下に、コーネリアは人を見つけた。
 園丁かと思ったが、違う。しゃがみこんでいるので正確なところはわからないが、彼女の妹、ユーフェミアと同じくらいの歳の少年だった。7つぐらいだろうか。
 彼は、何かを探しているようだった。
「おい、どうした」
 突如降ってきた尊大な口調に、少年は驚いて顔を上げた。
「申し訳ありません、許可を得ずに…」
 整った顔立ちの少年だった。宮廷では見かけない、簡素な、動きやすい服を着ている。園丁の縁者だろうか。
 真っ直ぐな黒髪は、癖が強く固い髪を持て余すコーネリアに、羨ましむ気持ちを持たせた。こめかみへ際が吊り上がっている猫のような目は、逆に、彼女に似ているように思われ、親しみを感じさせた。
 警戒心にかきつく握られた拳を見て、コーネリアは肩をすくめた。
「案ずるな。私はこの庭の関係者ではない」
 そう言うと、少年は、少し安堵したように見えた。
「先ほども聞いたが、どうした。何か探しているようだな」
「はい、妹の髪飾りを、なくしてしまいました。それで…こちらにあるように思えたので、探させていただいています」
「そうか」
 コーネリアは素っ気なく頷いた。そして、庭に入ってからの映像を探り、引き返した。少年は立ち上がって、彼女の姿を目だけで追う。着いて行くべきかどうか、悩んでいるようだった。
 来た道をほんの少し遡ると、庭が造られるより古くからあったのだろう、あまり手入れされていない背の高い木に、蔦と一緒に絡んでいるものを見つけた。少しつま先立つと伸ばした指の先に届いた。ガラス玉をはめ込んだ、花をモチーフにした装飾のある髪留めだった。たぶん少年は、下ばかり見ていたのだろう。
「これか?」
 掲げて見せると、彼は驚いて駆け寄ってきた。
「そうです!」
 コーネリアは薄く笑みを浮かべた。
 白い手は草の汁や泥で汚れていた。気づいた少年は、慌てて手を払い、両手をそろえておずおずと差し出した。ちゃちな髪留めが、その手のひらの上に載せられた。
「あ、ありがとうございます」
 目を丸くした少年は、はにかんで微笑んだ。きつい目元が、そうすると和み、愛らしさを増した。
 しかしコーネリアは、それを微笑ましく見守ることができなかった。
 不意に、彼が誰であるのかを悟ったのだ。引力を有しているかのように人の目を惹きつけるその双眸が、純度の高いアメジストの色であることに気づいたためだった。
 ユーフェミアが誕生する少し前、庶出の皇妃が産んだ男児だ。
 ブリタニア皇室では、他王室の例に漏れず、男子のほうが皇位継承権が高い。皇子、皇女、そして、ブリタニア皇帝と、皇妃でない女との間に生まれた男子と続く。しかしそれは絶対ではなく、有能でありさえすれば、継承権は簡単にひっくり返ることがあった。現に、コーネリアは幾人かの皇子を足蹴にしようとしている。そして彼女と同様に、庶子たちも、上位継承者たちに挑むことができた。近年、一人の庶子の青年が、最下位の皇子を追い抜いた事実もある。
 そんな制度では、庶出ではあるが皇妃を母に持つこの少年の継承権が取り沙汰されたのは、当然だった。
 彼が生まれたとき、コーネリアの皇位継承権についてしばらく議論が交わされ、その間、彼女は生きた心地がしなかった。母の落胆の光を孕んだ視線が、いつも彼女に突き刺さった。
 結局、彼女の継承権は下がることはなく、事態は収束した。少年の継承権は、皇子と皇女に次ぎ、他の庶子たちには勝るという中間点に置かれたのだ。しかし、この先彼が才能を発揮したら、そしてそれが、コーネリアと同等のものなら、コーネリアは皇帝の掌上から脱落するだろう。現皇帝は、貴族から押しつけられたコーネリアの母を気に入っていない。
 少年は、急に顔を強ばらせた少女を見上げて、不思議そうな顔をしている。
 なぜ気づかなかった。
 コーネリアは唇を噛んだ。すぐに自覚した。気づかなかったのではない、見て見ぬふりをしようとしたのだ。彼が、瞳の色も髪の色も違うが、自分に似ていたからだ。
 ユーフェミア、年の離れたはじめての妹は、コーネリア自身とは髪の色も瞳の色も顔立ちもそこから受ける印象も、性別以外のすべてが異なっていた。それが少しさびしいと、いつも思っていた。
 ――こんな弟がいたら…
 そう思ったのだ。この少年が弟であると、おそらく意識の底ではわかっていたのに、そう思った。
「あの…姉上、」
 口を開こうとしていた少年に、コーネリアは一喝した。穏やかな気分は一気に醒め、彼が口にした言葉に、怒りと嫌悪で鳥肌が立った。
「姉などと呼ぶな、勘違いも甚だしい!」
 少年の肩がびくりと震え、瞬間的に、大きな両眼に水の膜が張った。それが溢れ出す前に、コーネリアは踵を返し、その庭を後にした。

 ――ああ、あのときの夢か。
 瞼を上げたコーネリアは、寝台に据えられた巨大な天蓋を見つめた。そこには弟が贔屓にしていた、高名な画家が施した天使図が描かれている。彼女は彼が遺した寝台を、そのまま使っていた。
 意図してかはわからないが、右上の隅に桃色がかった茶髪の天使がいて、コーネリアはそれを見ると、柄にもなくつい微笑んでしまう。
 天使図には他にも、画面の奥のほうに、馬に乗った騎士の群れがいた。それを眺めるように、白い日傘を優雅にかざす貴婦人がおり、茶髪の天使は、その女性の日傘の上から、これは湖畔の花を見ているようだ。
 別の場所には、黒髪の天使もいる。青年たちから少し離れたところで、仲がいいらしい金髪の天使と手を繋ぎ、画面の外に視線をやっている。その、天使らしからぬ、鋭角的な顎のラインは、あの少年に似ている。昔の夢を見たのはそのせいだろう。
 伸ばした髪が重い。コーネリアはサイドテーブルの引き出しを開け、ピンで手早く髪をまとめた。いっこうに主に懐かない髪を、もう持て余すことはない。
 枕元に備えられた内線でコーヒーを申しつけ、欠伸をかみ殺す。食べることと笑うこと以外で大口を開くという所作が、コーネリアは苦手だった。例え自室でくつろいでいるときであろうと、油断した顔をさらすのは、自律心に反した。しかし、起き抜けだけはどうにもうまくない。
 ぼんやりとしたまま、夢の内容を思い出す。
 あのとき怒鳴ったことを、コーネリアは後悔していない。母の違う兄弟姉妹など、掃いて捨てるほどいる。だから、線を引かなくてはならなかったのだ。あれからは、周囲を顧みず、ただ妹だけを慈しんだ。そのラインは、少なくとも彼女の立ち位置を明確にし、ユーフェミアに安定と揺るぎない足場を与えた。
 あの後数度会う機会のあった少年は、年を経るごとに油断ならない成長を見せ、比例して生意気さを増していき、天使のあどけなさを踏み潰していった。
 時折、視線を感じることが、あったように思う。
 基礎体力をつける訓練をこなしているとき、戯れに馬に構うとき、温室でユーフェミアを妖精のように飾り付けたとき。流れるようにやってくる視線は、数瞬の間注がれたかと思うと、速やかに逸れていく。それに振り返ることは決してしなかった。例え目を合わせても、彼と自分は、貶め合うことしかできなかっただろう。そのころにはもうすでに、彼の明敏さは、コーネリアにとって敵だった。彼にとっても、コーネリアは敵だった。
 そしてまだ小さく弱かった敵は、後ろ盾を失い、放逐され、捨て駒にされて死んだ。
 ――どうせ死ぬのなら、もっと…
 そこまで考えて、鼻を鳴らすと、コーネリアは寝台から立ち上がった。情緒豊かだった弟の寝台で寝たせいだろうか。似合わない、感傷的な考えを起こしそうだった。
 立ったまま、内線にもう一度かけた。コーヒーは自分で取りに行くことにした。
 倦怠感を振り払い、手早く着替えを済ませると、コーネリアは部屋を出た。室内は温度調節されているが、廊下は朝の冷たい空気がそのままたゆたっている。身を切る冷たさに、すっと感情が冴え、理性が研ぎ澄まされていく。
 廊下には、彼女一人だった。夜通し仕事があった者も、起き出している者も多いだろうが、ここは皇族の専用フロアだ。ユーフェミアはまだ眠っているだろうし、階段とエレベータ付近以外には、護衛の兵士もいない。
 長く続く絨毯の上を歩き出そうとしたコーネリアは、最後の夢の残滓をふと取り出した。あのとき、彼女は、一度も振り返らなかった。
 誰もいない庭で、あの少年は、泣いただろうか。

【ランダム2×3題 1-3 小さな罪・初恋】