傾国

枢木日記 蛇足

12/11

 ルルーシュに懺悔します。ごめんなさい。嘘をつきました。
 それで放課後図書館に寄ったら(ルルーシュに散々、珍しいとか、熱でも出たのかとか、心配されました)、カレンさんがいました。僕が見たいものをすでに持っていたので、気まずかったです。たぶん、カレンさんはわかっていたのではないでしょうか。僕はカレンさんには嫌われているような気がするのですが、ひたすらお願いして、缶コーヒー一本でルルーシュには黙っていてもらうことにしました。
 カレンさんも、缶コーヒーを飲むんだなあ、と思いました。

 これでルルーシュに嘘がバレて信頼されなくなってしまったらどうすればいいのでしょう。僕はばかです。どうかあれが、幽霊に効きますように。


「般若心経のこと?」
 言いながら、スザクはたぶん、かなり妙な顔をした。
 正面には、旧友、ルルーシュが、厳粛な面持ちで座っている。いつもは彼は、スザクの隣に座る。一度聞いてもはぐらかされたので理由は知らないが、とにかく彼が正面に来るということは、改まった話があるということだ。そう思って心構えをしていたのだが、彼の口から出てきた単語は、予想をはるかに飛び越した思いがけないものだった。
 二人がいるのは、もう慣れ親しんだ感がある生徒会室で、他に人はいない。全員が出払った高等部内巡視の仕事から、共に一足早く帰ってきたところである。
 校内を戻る最中、クラブハウスの近辺で一度断って自室に寄ったと思えば、手に持っていたのは重そうな機材だ。スザクが聞いていない仕事かと思っていたが、どうも違うようだった。
 スザクは、目前に置かれた日本製と思しきレトロなカセットデッキを見つめる。そぐわない高性能の小さな集音マイクがついていて、友人の妙なこだわりが窺えた。
 しばらく思い出すように目を細めていたルルーシュは、意を得たように首肯した。
「ハンニャシンギョウ…そうだ、それ。おまえ、全部暗記していただろう?」
 あ、ごめん、あれ嘘。
 と言いたくても言えないスザクは押し黙った。
 そうだ、たしかに、彼の前で暗唱して見せたことがある。半分は出鱈目だった。あのころは、ルルーシュの感嘆の眼差しがたとえ呆れ混じりでも心地よくて、つい適当なことを言っては尊敬を勝ち得ていたのだ。今頃になって、そのツケが回ってこようとは、思いもしなかった。
 スザクは言葉を濁した。
「いや、まあ、前は…ていうか、なんで?」
「あれはたしか、聖書の言葉と同じような効果があるんだったな」
「うん、そうだね」
 昔読んだ漫画では、ゴーストハントの東西対決には、真言と聖句が使われていたような記憶がある。
「でも、それで、何がしたいの?」
「悪霊退散」
 数秒の沈黙の後、スザクはルルーシュの顔を見た。さわるとすべすべしていそうな、染みも雀斑も面皰も、過去に存在した形跡からしてない、嫌味な肌だ。
 冗談の気配は見あたらない。
「…えっと、悪霊がいるの?」
「いるんだ。女のゴーストだ。髪が長い。食い意地が張っている」
 それはゴーストではないのでは、と言いたくなるほど具体的な特徴をルルーシュは述べる。彼が感じているのは、恐怖ではなく苛立ちのようだ。こういうところは、彼は神経質そうな見かけを裏切って図太い。
 何か問題が起こっているのかと、スザクは眉を寄せた。
「ポルターガイストが起こるとか、そういうの?」
「ポルターガイストくらいなら我慢する、だがあいつ、あいつは、」
 拳が握りしめられ、平静を装う面の端々に、怒りの波動が垣間見える。スザクは少しだけ肩を引いた。
「――添加物なんて有害なものを…っ!」
「てんかぶつ?」
 ゴーストと添加物の間にどんな因果関係があるのか、スザクには見当もつかない。
 もはやルルーシュは、彼の言葉など聞いていなかった。一通り低い声で毒づき、不意に気を取り戻す。はじめるぞ、と言いながら、マイクをこちらに向けて、無駄に洗練された仕草で録音ボタンを押そうとするので、スザクは慌てて抗議した。
「ちょっと待ってよ。なんで般若心経なの? そしてなんで僕?」
 ルルーシュは苛立たしげに、ぴんと立てていた指を止めると、こちらへ突きつけた。
「十字架や聖句よりも効きそうだからだ。それにおまえの声なら、俺はあまり気にならない」
 やはり、わけがわからない。
「だいたい、僕の実家は神社です…」
「? 知っている。それがなんだ?」
 ルルーシュは不思議そうに見てくる。スザクは言葉に詰まった。ここで彼に、仏教と神道の棲み分けを説いても仕方ない。
 スザクが喉の奥で唸ったとき、生徒会室の扉が開いた。仮装パーティの下見で校内の各所へ手分けして出かけていた、二人以外の生徒会のメンバーが戻ってきたのだ。
 室内に落ち着いている組み合わせを見て、シャーリーが瞬いた。
「二人とも、早かったんだね」
 スザクは天の助けと目を輝かせた。
「うん、なんか、ルルーシュが急いでたから」
 そのルルーシュは、苦虫を噛み潰したような顔をしている。ミレイとリヴァルが、カセットデッキを見とめて、子どものようにはしゃぎ始めたからだ。リヴァルが腰をかがめて、鈍い銀色に光る四角を覗き込んだ。
「何だよこれ、なんか、昔見たことあるけど」
「これはカセットテープの再生機ね? 私が知ってるのより大きいわ」
 ミレイが妙な博識を披露する。ルルーシュはむっつりとして応じた。
「これが一番安かったんです」
「わざわざ買ったの!?」
 スザクが驚いて声を上げるのにかぶせて、リヴァルが尋ねた。
「なんで?」
 あ、と思ったときにはもう遅い。ルルーシュは口を開いていた。
「スザクに、ハンニャシンギョウを吹き込んでもらおうと思って」
「ハニャーシュギョウ?」
「ハンニャシンギョウ、だ」
 リヴァルの発音をはっきりと正す。伊達に日本暮らしが長いわけではない。ルルーシュの日本語の発音は、スザクが聞いてもほとんど違和感を覚えないくらい、正確だ。
 進退窮まったスザクは、こっそりと肩を落とした。これではもう、逃げようがない。
 カレンが目を丸くした。
「枢木くん、あれを暗唱できるの?」
「あらー、詳しいのね、さっすが本家本元! 私もさすがに暗唱は無理よぉ、サンスクリットなんて専門外だし、漢字も読めるかわからないし」
 ミレイが物珍しさに目を輝かせる。それに対して、なぜかルルーシュが答えた。
「スザクはこれでも物覚えはいいんです」
「こ、これでもって何?」
 ルルーシュはスザクへ視線を流した。切れ長の目の中を紫が泳ぐ様子は、どれだけつき合いが長くても、落ち着かない気分を招く。
 うかつに目にしたシャーリーが頬を染めるのに、ミレイが目敏く気づいて、美少女にふさわしからぬ笑みにコケティッシュな唇を歪ませた。指で無防備な少女の脇腹を小さなかけ声と共につつき、高い悲鳴を上げさせている。
 ルルーシュはその一連を意識に素通りさせて、口の端を吊り上げた。
「おまえの、あの、考査の、成績でも。ってことだ」
「ひどいよルルーシュ」
 笑いを含んだ声に、スザクは情けない顔になる。たしかにこの間の考査の成績は、赤点は避けられたものの、とても褒められた結果ではなかった。あのときは、おまえはあの状況でよくがんばった、と慰めてきたくせに、ルルーシュは意地が悪い。
 ルルーシュがどうしても諦める気がないのだとわかり、スザクは方向を変えて、ミレイを頼った。
「でも、吹き込んでる時間なんてないよ。今から会議を始めるんですよね?」
 しかし彼女は、ここぞとばかりに太っ腹な姿勢を見せた。
「いいわよぉ、今日の予定はもうさっきの報告をまとめちゃうだけだもの。始める前に、ちょちょいと録音しちゃいなさいな」
「う、じゃあ、放課後…は無理だから、…それに準備があるから明日」
「明日じゃ遅い」
 ルルーシュは即答した。
「明日には何か、取り返しのつかないことになってるかもしれないだろ」
「え、何、なんの話?」
 ポルターガイストのくだりを聞いていない生徒会メンバーが、不思議そうにするが、ルルーシュには説明をする気はないらしい。友人の返事だけを待っている。
 スザクは覚悟を決めた。
「…わかったよ、短いからすぐ終わるし」
「頼む」
 ルルーシュが少し弾んだ声を出す。スザクは彼を恨めしく睨んだ。そんな顔をされては、期待を裏切れない。
 息を吸うスザクにマイクが向けられ、白い指が再び下ろされる。リヴァルが横から伸ばした手で、スイッチを押す権利を奪った。ルルーシュの手が悪友のそれをはたく。それを見ながら、スザクは必死に、頭の中の記憶を辿った。
「あー…あー、まかはんにゃはらみったしんぎょう……かんじざいぼさつぎょうじんはんにゃはらみったじしょうけんごうんかいくうどいっきくやくしゃりし、……しきふいくうくうふいしきしきそくぜくうくうそくぜしき、じゅそ…う…」
 はじめの十数秒で、記憶している部分は過ぎ去る。残った断片を繋ぎながら、スザクはできるだけゆっくりと、ぼそぼそと呟くようにした。ニーナが、あんな風でいいの? とミレイに尋ね、お経ってあんなものよ、と指を振られる。シャーリーが困ったように、声を潜めて笑う。
「なんか…眠くはなりそうだね」
「あーでもなんか、霊験あらたかそうな感じ?」
 リヴァルがうんうんと頷く。ルルーシュは雑談に加わらず、真剣な顔で、スザクにマイクを向けている。
 スザクは泣きたい気分になった。
「ことくなおく…あらさんみゃく……むじょうぜむ、」
 カレンの眉間の皺が深くなっていくのは、誰も見ない。
 二分間、全員にまじまじと見つめられ、こそこそと囁かれ、耐えきれなくなったスザクは拷問を切り上げた。
「…そわか、はんにゃ、しんぎょう。――っこれで終わり!」
「こんなに短かったか?」
 スザクが適当に切り上げると、少し不満そうに言って、ルルーシュは停止ボタンを押した。デッキの中で、テープがきつく巻かれる不吉な音を立てて止まる。
 安堵の息をついたスザクは、次に聞こえたミレイの言葉に、ぎくりとした。
「うーん、心が洗われるわ!」
 ニーナが、逆に悪い夢を見そうじゃないかな、と控えめに呟いたが、リヴァルはミレイの言葉に賛同して首を上下に振っている。シャーリーはどっちつかずに唸りながら、テープを巻き戻すためにスイッチに置かれた思い人の指先を見ていた。
 スザクがこれほど、ニーナ個人に同感の念を抱いたのは、これがはじめてである。彼女がもっと強引な性格であれば、と願ったこともだ。彼女の意見は黙殺された。それに対して特に反発をしない少女に、スザクはがくりと肩を落とす。
 ミレイはいつもの調子で、右腕を振り上げた。
「よーし、じゃ、気分一新して会議でも始めますか!」
「はーい」
 何人かの声が唱和した。珍しくそれに加わらず、スザクはルルーシュを見た。
 デッキから聞こえ始めた、胃の鳴るような奇妙な音を無視して、彼はスザクに礼を言った。
「助かった、スザク。これでゴーストは不眠になって、俺は安眠できる」
 機嫌が好さそうなルルーシュに、スザクは胸を引き絞られるような気持ちになる。誠実、という己に課した二文字が、脳裏を巡った。
 かといって、今更適当なことを言いましたなどと告白することもできない。ルルーシュに、堂々と嘘をついたなどとは言いたくない。できるのは、うやむやにしたくなる気持ちを抑えることくらいだ。
 スザクは立ち上がって、カセットデッキをテーブルの隅に移動させるルルーシュを追いかけた。
「あの…ルルーシュ。久しぶりだから、間違ってるかもしれないから。効果が出なかったらやり直すから…それか、僕が直接行くよ。休暇をとって泊まり込むから、何かあったら言って。ね?」
「何をそんなに…」
 彼は呆れていたが、やがて肩をすくめた。
「わかったよ。だめでなくても、そのうち夕飯を食べに来たらいいさ」
 しょうがないやつだなと、微笑むその信頼が痛い。
 軍へ行く前に、図書館に寄って般若心経の資料の複写をとっておこう、とスザクは心に誓った。

 その晩、クラブハウスの一室で、寝台からむくりと起き上がって女が呟いた。
「おい、ルルーシュ。これは般若心経じゃない。勉強をさせて出直してこい」
 釈迦が鍋に空を入れてどうする、とぶつぶつ呟いた女は、隣を見下ろして口を噤んだ。彼女らしくなく逡巡して、とりあえず、枕元に置かれたカセットデッキを止める。雑音混じりの低い声が止まり、部屋には静寂が訪れた。
「…なんでこれで寝てるんだ」
 不可解な顔になり、安らかに眠る少年の隣に潜り込んだ。