傾国

花は黙したまま

 冬間近とはいえまだ暖かい午後、クラブハウスは、窓から射す光に内部を白く照らされている。壁紙は少し褪せていたが、臙脂色の絨毯は、時折来る生徒たちの靴底にさらされても、まだ充分に新しい。不法侵入者が少し乱暴に歩いたくらいでは、長い毛に絡め取られて音は立たない。
 C.C.は白い袖を靡かせて、廊下を気ままに横切った。
 この建物は広いが、来訪者はほとんどいない。試験前は、半日で全校生徒が下校するのでなおさらだ。もともと住人も少ない。そのうち、主の一人は学園に留まり、世話係の女は所用に出かけている。正式な住人ではない者一人、見とがめられる心配はないはずだ。ただ一つの要因を除いては。
 その唯一の要因である、小さな作動音が、静かな空間を平坦に破った。
 C.C.は冷静に踵を返した。そこから遠ざかるためだ。広いが長くはない廊下、手元には届いたばかりのピザがある。盲目の少女に、見えはしないだろうが――
「あの、誰か、もしかして、そこにいらっしゃいますか?」
 震える声が背に刺さった。
 しばらく動きを止めてから、くん、と鼻を鳴らす。ピザの濃厚な匂いが鼻腔に満たされた。
「こんにちは、失礼している」
 開き直って、C.C.は挨拶した。
 世話係の手を借りて着替えたのだろう、ナナリーは白いブラウスにカーディガン、爪先のすぐ上までを覆うロングスカートという、地味な服装をしていた。豊かな栗色の髪と幼い顔立ちを見なければ、世捨て人の老婆とも思えるような格好である。
「…C.C.さん?」
 閉じた瞼の白さに、彼女の瞳の大きさが想像できた。本来雄弁だろうそれの代わりに、少女の眉が下がっていた。
 知人だと知って、彼女の肩からは少しだけ強ばりがとれたが、呼鈴が鳴らないままそこに人がいるおかしさは変わらない。それでも、彼女は、丁寧に謝罪した。
「すみません、お兄さまはまだ…」
「いいや、通りがかったらピザの宅配が来て、家の人間と間違われた」
 実際には、ナナリーが在宅しているため、茂みに潜んで配達人を待ち受けていたのだが。
 不審な言い訳だが、ナナリーは疑わなかったようだ。おっとりと慌てて、少し頬を染める。
「まあ、また、お兄さまったら…こんな時間に。ありがとうございます、C.C.さん。膝の上に置いていただけますか?」
「ああ」
 C.C.は名残惜しくピザを見つめた。今日はシーフードだった。
「エビだ」
「え? ああ、ピザですね」
 不思議そうに首を傾げたナナリーは、ふと何かを閃いたかのように顔を明るくした。
「C.C.さん、もし、お腹が減っていらしたら、そのピザを少し減らしていただけませんか」
「ん?」
「お兄さまは最近、ピザばかり食べていて…健康に悪いのではないかと、心配なんです。咲世子さんも困っているし…」
「任せておけ」
 一瞬も躊躇せず、C.C.は頷いた。それにこのまま置いておけば、ナナリーに何かを言われるに違いないルルーシュは激怒するだろう。彼がどれだけ怒ったところで彼女は何らの痛痒も感じないが、小うるさいことはたしかだ。ピザの箱を三段積み重ねていただけでカード差し止めを匂わされ、憤慨したのはつい先日のことである。
 ナナリーに案内され、C.C.は食堂に入った。
 食堂といっても、クラブハウスに併設されているものだから、そう広くはない。数人で食事をとるのにちょうどいいくらいの空間である。
 はじめて会って、折紙で遊んだときのように、二人は並んで座った。ナナリーは恐縮してピザを勧めたが、そのときにはすでに、C.C.は一枚目のピースをつかんでいた。
 ナナリーは、彼女の兄といるときよりも多弁だった。初対面では、ホストとしてふるまうことで優雅さを保っていたのか、落ち着いた、沈黙を厭わない女主人だったが、今はC.C.の寡黙に促されているかのように、いろいろなことを話した。
「クラブハウスでも、この棟はあまり使われていないんです。学園は広いからってお兄さまは言いますけれど。たぶん、私たちに気を遣ってくださっている人がいるんです…この絨毯も、とてもふかふかしているでしょう? 私が車椅子の音を気にしないで動けるようにって、お兄さまが頼まれたのですって」
 なんと過保護な男だと、C.C.は思うが口には出さない。ナナリーの顔は、戸惑いつつも、その兄に対する敬愛を隠そうとしていなかった。双方向に愛情が通っているのは、けっこうなことだ。
「あの、C.C.さんは、お兄さまとどのように知り合われたんですか?」
 しばらく毒にも薬にもならない話を続けてから、ふと、ナナリーは尋ねた。あまりに自然に問われたので、C.C.は一瞬、そのまま真実を伝えてしまいそうになった。口を一度開き、閉じてから相手を窺うと、意図して不意を突いたわけではなさそうだ。
「話せば長くなる」
「聞きたいです」
 追求の打ち切りを匂わせたつもりだったが、少女はらしくなく食い下がった。兄と同様に彼女も、初対面のときにルルーシュへと向けた言葉に、過剰に反応しているのかもしれない。
 C.C.は一ピース目の最後の一口を咀嚼し終えてから、おもむろに口を開いた。
「賭けをしているんだ」
「賭け…ですか?」
 予想と違う言葉が返ってきたのだろう、ナナリーは不思議そうに問い返した。
「ああ、私がな。だが、内容は聞くな」
「…はい」
 物足りなそうな返事だったが、素直に引き下がる。よく躾られている、とC.C.は思う。犬の従順さだ。ルルーシュは犬が好きなのだろう。
「おまえは食べないのか」
 犬に餌をやる主人を思い出しながら、尋ねる。
「あ、いいえ、私は…」
「一口やろう」
 首を横に振って固辞するナナリーの口元に、C.C.はピザを近づけた。エビを載せたのは、彼女のサービス精神ゆえだ。
 小振りな唇に生地の先端が触れる。びくりと震えてから、ナナリーは眉を下げたまま、口を開いた。放り込まれたものを確認し、ゆっくりと頬を動かした。小動物が、はじめて食べる餌を警戒するのに似ている。やがてピザの欠片は嚥下され、ナナリーは生えそろった睫を揺らめかせた。
「ピザって、とても塩辛いですね」
「食べたことがないのか?」
「いえ、でも、久しぶりでしたから…ごちそうさまです」
 軽く頭を下げて、ナナリーは苦笑に似た笑みを浮かべた。
「すみません、食べさせていただいて…こんなこともできなくて」
 その声は、小鳥のさえずりのように愛らしかったが、顔と同様に苦い響きを含んでいた。ルルーシュは、彼女の前では、その障害を嘆きはしても、哀れんだり蔑んだりはしないだろう。だが、ナナリー自身は、おそらく自分の身体を誰よりも見下しているのだ。
 C.C.はオイルのついた指先を舐めた。
「何かをなくせば、別の何かを得るために、人は色々な力を持つだろう。奸智、勇気、人脈、なんであれ、その性質に合ったものを。それは、王の力であったり、もっと直接的に、強大な武器であったりする」
 お前の兄のように。そして彼の手駒たち、あるいは、あの白いナイトメアの操縦者のように。
 その言葉を口にせず、C.C.は唇の端からチーズを伸ばした。帆立の欠片がこぼれそうになるが、動じず、舌でさっと掬った。ナナリーは気づかなかったようだ。
「私も、何か、力を得ることができるんでしょうか」
「お前はもう、力を持っている」
 少女が意外そうに、眉を上げる。C.C.は帆立の風味を味わうために目を閉じた。
 妹を守るために、ルルーシュは王の力を最大限に発揮するだろう。彼女を守ることは、守られなかった自分をも守ることになる。それは、彼の何より強い動機の一つだ。
 ナナリーは弱者の象徴だった。弱い者であること、それ自体が、彼女の力だった。彼女自身が自分の無力を嘆こうとも、それは事実だった。
 C.C.は、彼女を表す言葉を考える。
「そうだな…さしずめ、花の力だな」
「花、ですか」
 ナナリーは困惑げに、唇を薄く開いた。
「お前を平穏に、きれいに咲かせるために、周囲の者はお前に尽くすだろう」
 誰が、と具体的に言ったわけではない。しかし聡い少女は、それがただ一人の人間を差すことを理解した。なめらかな頬が、白く、固くなる。
「私は…お兄さまに、そうしてほしくはありません」
「それはあいつの勝手だ」
 C.C.は素っ気なく言った。その親しげな響きに、ナナリーは怯んだように唇を結んだ。淡く色づいていたそれは、次第に色をなくしていく。
「誰もが、得たい力を得られるわけではない。どれだけそれが、本人が望んだそのものであるように見えても、実際には、選べたはずのたくさんの道があるものだ」
「……」
「ルルーシュにも、多くの選択肢があった。その中から、あいつは特に、今持つ力を選んだんだ。それはもしかしたら、おまえも原因の一つなのかもしれない。だが、」
 C.C.はピースの上で重なったエビの剥き身を一つ摘み、ピーマンの隣に配置した。赤と緑のコントラストに満足し、大きく口を開き、それから彼女の言葉を待っている少女に気づいた。口を慎ましく閉じて、厳かに宣告する。
「…お前がそれをどう思うかは、お前の勝手だ。不満があるなら、言えばいいだろう。ルルーシュはおまえを、花だと思っているわけではないのだから」
「…え」
「花はしゃべらない」
 ナナリーの瞼の白は明るさを取り戻した。それを見ながら、C.C.は、具をうつくしく配分したピザの、とっておきの一口を食べ尽くした。
「はい、私は、花じゃありません」
 ナナリーは微笑んで、何度も頷いた。
「そうですね、――あ、お兄さま」
「ん、帰ってきたのか?」
 二人は廊下に出た。いつの間にか日は落ちていている。C.C.の視線の先で、奥の電灯が灯され、薄暗い壁面の一部を明るく染めた。低く囁く音と、世話係の女の慌てた声が小さく漏れている。
 C.C.はナナリーに向き直った。
「今日、私が来たことは話すな。ピザはすべていただいたからな」
「まあ」
 ナナリーは口元を綻ばせた。
「はい、わかりました。猫さんが食べてしまったと言っておきます」
「頼んだぞ」
 そう言うと、C.C.はピザの空箱を抱えて、裏口のほうへと歩んで行った。足取りには乱暴さはないが、速さだけは脱兎の勢いだ。
「任せてください」
 誰もいない空間にナナリーは一度頷き、それから、兄を迎えるべく玄関へ向かった。
 彼は、屋敷内であろうと、ナナリーが一人で行動すると不安がる。妹の自由を侵害することを慮ってか、それを直接言いはしないが、彼が妹の心情を察するのと同じように、兄の心情がナナリーには敏感に感じ取れるのだ。だからいつもは、足音が聞こえても、おとなしく部屋で待っている。
 姿を現した妹を、彼は少しの驚きを持って迎えた。
「おかえりなさい、お兄さま」
「ああ、ただいま、ナナリー」
 優しさと労りが降り積もってできたような甘い声が、彼女の膝に転がる。頭を撫で、頬に触れた手には、まだ外気の寒々しさが残っていたが、ナナリーは花のように微笑んだ。
「ピザ、ごちそうさまでした」

【ランダム2×3題 1-2 王・武器】


枢木日記 蛇足