花 の な い 軒 下 1

「雲が来るかもね」
 隣でルックがぽそりと呟いたので、ムツは顔を右へと向けた。彼は相変わらずの仏頂面で、空を見ていた。隣人を気にした様子もなかったが、彼は他人がいるときに独白するタイプではないので、今の言葉はムツに向けたものだろう。聞き流す内容ではなかったので、ムツは尋ねた。
「雲? 雨が来るっていうこと?」
「そう。北の上空に強い風がいて、雨雲をこちらへ押している」
 それだけ説明すると、ルックは押し黙った。情報を提供するだけで、何かをする気はないらしい。
 現在、デュナン湖周辺は、花曇りの薄暗さだ。だがそれも明日以降は、次第に晴れ間が広がるだろうと言われていたはずだ。ムツはしばらく思案してから尋ねた。
「こないだ、天気はこれから上り坂になるだろうって言われたけど」
「普通ならね。西はまだ晴れてるし。ただ、北の上空の風は、たぶん人為的につくられたものだから、これからどう転ぶかわからない」
「それって、ハイランドが何かしようとしてるってこと?」
 北にいる幼なじみの顔を思い浮かべ、ムツは眉を寄せる。できれば否定してほしかった。彼の願いが通じたわけではないだろうが、ルックは素っ気なく答えた。
「ハイランドにはそれだけの技術はないし、余裕もないだろ。そのもう一つ北だよ」
「ハルモニアかあ」
 その国名を出すと、ルックは嫌そうに片目を眇めた。
「魔法の実験でもするんだろ」
「止められないの?」
「今回は無茶を言っても通らないよ」
「……ふうん」
 不満げな声を出してから、ムツは辺りを見回した。
 かすかに甘い、花の香りが漂っていた。
 城内には花が溢れている。
 花を所狭しと飾った窓は、トランから職人を呼んでこしらえたものだ。春窓といって、デュナン地方の東部に伝わる、春迎えの風習らしい。普通は窓辺に木枠を組んで、その年はじめての春の花を挿したり、花籠や花瓶を置くだけだが、パフォーマンスになるなら派手なほうがよろしいと正軍師が予算を寄越し、結果として時節は遅れたが、城内には花が溢れることになった。
 本拠地の敷地内に疎らに生えた木々にも、思い思いの花飾りや花籠が下げられた。城内の多くの窓は小さな花々をぎっしりと抱え、外へも内へも華やかな色彩が枝垂れる眺めは、飾った人々を満足させた。
 中でも中央広間石板前に、門に見立てるように据えられた、丸く大きな木枠の春窓は見事なものだった。ナナミをはじめとした少女たちが、一番に目立つと言ってそこに春窓をつくることを主張したとき、おそらく誰もが、石板前の魔法使いが反対すると考えたことだろう。しかし大方の予想に反し、ルックはあっさりと石板前を離れた。
 石板前の春窓は、白木蓮を基調にした、簡素で、しかし華やかなものだった。花は瑞々しい木蓮で、芳香は控えめだった。その図案を誰が考えたかはわからないが、その木枠の内にルックが納まれば、うつくしい絵で、清雅な額縁だろうな、とムツは思っている。しかしルックにはその気はないようで、春窓が出来てからは、一度も石板前に立とうとしなかった。
 今も二人がいるのは、中央広間の、石板から少し離れた壁際だ。石板前の春窓には小さな子供たちが群がり、物珍しそうに花々と、その奥の石板を見ていた。
「雨が降ったら、もしかして窓、壊れちゃうのかな」
 このように華やかになった城内が、沈んでしまうのはつまらない。ムツはそう思って、下唇をつまんだ。爪の先をかじりそうになったとき、唐突に声がした。
「大丈夫です」
「!!」
 ルックが咄嗟に、自分とムツの周囲に風圧を生じさせたのがわかった。下から上へ吹き上げる強烈な突風が、壁のようになって円柱をつくる。突然の風に煽られた砂が頬に当たり、ムツは慌てて目を閉じてそれ以上の侵入を防いだ。
 風はすぐに収められた。
 目を開けると、不機嫌な顔で、ルックが一人の青年を睨んでいた。彼の視線の先には、小さな円の眼鏡をかけ、円筒型の帽子を被った人物が立っていた。少し離れた場所に立つその青年は、突風によって飛ばされかけた帽子をしっかりとかぶり直し、眼鏡をくいと指で押し上げてから言った。
「花をしまえば鎧戸を下ろせるようにしてありますから。多少の風雨は防げます」
 彼は三年前にトラン湖上の城の窓を設計したという、窓職人だった。
「僕の窓は完璧」
 抑揚なく、しかし歌うような浮ついた雰囲気で呟いて、青年はムツに対して軽く会釈をすると、踵を返した。
 ルックは無表情だったが、その奥に、引きつったような顔を隠しているのが、ムツにはわかった。こういう、奇矯でマイペースな行動をとる人物が、ルックは嫌いで、苦手なのだ。
 青年の残した奇妙な空気を追い出すように、ムツは軽い声を出した。
「でもルック、やっぱり心配だし、魔法兵団十分の一くらいなら使っていいから、どうにかしてよ」
「戦も近いのに、そんなことできない」
 ルックはきっぱりと言った。
「今、余剰兵力がないことくらい、知ってるんだろ。こんな祭り一つのために貴重な兵を動かすなんて、仮に軍主が命令しても、他の幹部が許さないよ」
 確かに知っていた。だから十分の一と言ったのだが、話にならないらしかった。魔法兵団は歩兵よりもずっと数の少ない騎兵より、さらに少数である。紋章を宿すことができ、さらには戦場で使うことにできる人間は限られているからだ。だから、その十分の一くらいの兵力があれば、ルックは的確に指示を出して、すべてを終わらせてくれるのではないかと期待したのだが。
 寒村に育ったムツには、大勢の人間を指揮し、養う感覚が理解しにくい。新同盟軍が集う時にはいつも、その唸るようなざわめきや、人の匂いや熱に圧倒されるだけで、そのすべてを彼が繋いでいるのだという実感は薄かった。彼を選んだ軍師は、糸だってそのように思っているでしょう、と言った。以来、ムツは、糸としての役目以外のことを、あまり考えないようにしている。
 丈夫な糸といえば釣り糸かな、と思ったところで、ムツはふと、釣りを趣味と公言している一人の少年のことを思い出した。
 ムツは意地悪な気持ちになった。まだ故郷の村に住んでいたころ、一生懸命に生きている義姉を好んでいじめようとする輩がいて、昔はその子どもたちのことを、都市同盟などよりもよほど憎んだものだった。しかし今なら、あの子どもたちの気持ちが、ほんの少しだけわかるかもしれない。強くて健気なものを見ると、慈しもうと思う切なさと、踏み潰そうとする衝動がせめぎ合うのだ。
 その二つに挟まれた微妙な位置で、ムツは口の端を上げた。
「――そうだ、魔力が高い人が必要なら、セオさんとか連れて行けば?」
 ルックの端正な顔がはっきりと引きつった。