ね じ れ て 隣

 水面が乱暴に風に撫でられ、水音が上がった。細波が池畔へと向かう。
 仄かに色づいた魚影を遠目に、ゲンオウは後ろ脚をゆったりとばたつかせた。背後に大きなうねりが生まれ、消えた。
 滝の下の水たまりには、小さく弱い魚がいるだけだ。彼らは餌であり、もちろん意思の疎通などできるはずがないので、話し相手を常に欲しているゲンオウであれど、関わろうとは思わない。魚の死ぬのは、太陽が昇り、落ちるのよりも頻繁に起こる。ゲンオウにとっては、花が枯れるのと同じだ。四季の移り変わりを知ることができるだけ、花のほうが上等かもしれない。
 もっとも、花がなくとも、おおまかな季節くらいは把握できた。夏には水が温み、自らの身体が発する腐臭が際立つ。冬には脆い氷が張り、水の流れに割れて、藻屑に絡んで白い花になってはすぐに溶けていく。
 冷たいという感覚が、ゲンオウにはわからない。だから、夏であろうと冬であろうと、滅多に陸上に上がることはない。滝の強い水流が当たる場所を選んでたゆたい、一日も一年も、同じもののようにして過ごす。
 一日は、続く日々の一瞬でしかない。
 ゲンオウはうろうろと視線を巡らせ、変わらない水中を確認し、安堵と落胆をおぼえた。それから水上を見つめ、細い二本の木を見つけた。昨日には――ゲンオウがおぼえている昨日には、なかった。彼は、少し嬉しくなる。そして同時に、耄碌したものだと悲しくなり、首を振る。また、水流が生まれる。

* * *

 強さを増した波が、陸を浸した。
 リヒャルトの靴の先は濡れ、じわりと冷たさが染みこんだ。とはいえ、ここは南方の国だ。水はたしかに冷たかったが、耐えられないほどではなかった。
 しかし、彼は、水から逃げた。水を飲むのは好きだが、浸かるのは好きでない。湿気も、食糧が黴びるので、嫌いだった。黴が生えてもものは食べられるが、ミューラーが不機嫌になるのが嫌なのだ。彼は不機嫌になると、リヒャルトへの当たりに、まずそれを顕す。物理的にどうこうするわけではないが、普段抑制している部分から構わなくなるということだろう。
 リヒャルトは滝を見た。水温は、水たまりとそう変わらないのかもしれないが、「落ちて肌に当たる」ということで、多少は感じ方が変わる気がした。
 水中を行って濡れることを彼はよしとしなかった。着替えは隊に置いてきたからだ。それに、濡れるとさすがに寒い。靴の爪先はすでに、風に触れて冷えてきていた。
 滝に触れるには、陸地からは、岩石を伝っていくしかなさそうだ。
 見回すと、ちょうどいい場所に手頃な足場があった。気のせいか、水の流れと関係なく動いているように見えたが、リヒャルトにはどうでもよかった。彼はそこへ足を向けた。

* * *

 不意に、何か重いものが甲羅の上に載せられたような気がした。岩だろうか。少し身体を揺すると、やがてころりと何かが落ちたようだった。たまにあることだが、滝に流されて小さな岩が降ってくることがある。甲羅に傷が付くことを今更厭いはしないが、年のせいだろう、もろくなっている。罅が入ると、小魚やらが群がることになるだろう。それは嫌だった。若いころに見た、虫に甲羅を巣にされ、生き餌となった陸亀を、ゲンオウは思い出す。鈍重な陸亀は、己の甲羅の怖気をふるう有様に気づいていなかった。
 まったく、大きいのも困りものだわい。そう考える。
 藻も生える。藻は自分ではとれないから、誰かに削ってもらわなければならない。しかし、その誰かは、滅多に来ない。昔は仲間がいて、時には飼い主のようなものがいて、彼らの気が向けば、ゲンオウを清潔に保ってくれたものだったが。
 藻を意識すると、神経には関係ないのに、甲羅がむず痒くなってくる。
 かりかりと、何かをひっかくような音が、水面の向こう、陸上からしている。それにも、痒さを助長される。ゲンオウはまた身体を揺すった。

* * *

はいけい、ミューラーさん。あとヴィルヘルムさん。

 滝に当たりにきました。
 ちょっと道に迷ったけど、山の下を回ってみたら、川の最初にありました。家がないので、肉ばかり食べてます。ここはトラが多くてよかったです。カメもいるみたいです。カメは大きいです。それと、揺れます。
 ここは水が冷たいよ、ミューラーさん。ミューラーさんが嫌なことはしなくていいって言ったから、滝には入らないことにします。
 早く帰ってこいって言ってほしいです。

 少し迷ったが、署名をした。本文の末尾に自分の名前を書く。リヒャルトより。読み返して、誤字や脱字がないのを確かめる。字を書くのに使った棒切れを投げ捨てる。
 それから、リヒャルトは、足の裏で手紙を消した。

* * *

 ゲンオウは桟橋に前半身を乗り上げ、漁師の父娘とスバル、ビーバーたちに、藻を取らせている。人間である三人は甲羅の上におっかなびっくり掴まり、ビーバーたちは水中に潜っていた。ゲンオウが、水中からのほうが気分がいいと我が儘を言ったからだ。数人がかりの大掃除だった。
 老亀はひどく満足そうに、幾本もの皺の中に、細めた目を埋めている。
 賑やかさからぽつりと離れたところで、アスカルは小さなブラシで水垢を擦っていた。ほとんどなんの役にも立っていない。本人は甲羅の上に載りたがったのだが、たしなめられてしまったのだ。楽しみにしていただけに、落胆のあまり腕も止まりがちである。
 彼の隣ではリヒャルトが、落ちていく汚れを不思議そうに見ている。こちらは本当に、何の役にも立っていない。彼は単に、軍師の依頼で出かけた上司の帰りを待っているのだ。
 フワラフワルがさらにその隣にちょこりと座り、老亀の話し相手を務めていた。
「滝つぼは辺鄙なところですからのう。人間など、辿り着きませんでしょう」
「うむ、うむ」
 何かを口に含んだまま喋っているようだ。
「殿下が行かれるまで、誰にも会われませなんだのですか」
「うむ、そうじゃのう」
 なんとはなしにその会話を聞いていたアスカルは首を傾げた。
 リヒャルトは、あそこにいた、と思う。幸い本人が隣で呆けているので、話を振った。
「リヒャルト。滝つぼにいたよね」
「滝つぼ? そうかなあ」
 リヒャルトはもう、忘れている。
 アスカルはもう一度、じっくり思い返す。
「いたよ。うん」
「じゃあ、いたのかなあ」
 埒が明かない。アスカルは質問を変えることにした。
「闘神祭の後、ミューラーさんに、滝に当たってこいって言われたんでしょ」
「うん、言われたよ」
 彼の神の名を強調すると、リヒャルトは即座に頷いた。彼が聞かないことまでしゃべり出す前に、アスカルは尋ねた。
「そのとき、ゲンオウさんを見なかったの?」
「げんおうさん? 見てない」
 リヒャルトは、誰だそれは、と問うているのと同意義の顔をしていたが、アスカルはそれには気づかなかった。自分の記憶を探るのに気を取られたのだ。
 この二人はたしか、同じような時期に、同じ場所にいたはずだ。自分が痴呆になったような不安に、アスカルは落ち着かなくなった。リオンに聞いてみようかな、と思う。
 方針を決めると、気を取り直して、彼はリヒャルトについでに問いかけを投げた。
「ずっと水を見てたの?」
「手紙を書いたよ」
「ミューラーさんに?」
「ミューラーさんと、ヴィルヘルムさんに」
 リヒャルトも寂しかったのだろうか、アスカルはそう思った。彼からミューラー以外の名前を聞くことは、それが例えあの陽気な隊長であっても、滅多にないことなのだ。滝つぼは寒くて、澄みきっていた。一人でいれば、感傷的な気分になるかもしれない。
 アスカルがそんなことを考える傍らで、年寄りたちの会話は、いつの間にか移り変わっていた。
「ややそれは、ぜひご一緒したいものですのう。露天なら、ゲンオウ殿でも、湯が溢れる心配もありませんでしょう」
 どうやら老亀は温泉に入りたいらしい。年中水に浸かっているのに、まだ濡れたいのだろうか。
「一人で入るのは、寂しいものじゃからのう」
 ゲンオウは溜息をついた。彼の鼻先に、小規模な水しぶきが上がる。
「そうだよねえ」
 アスカルがその会話に気を取られたので興味を引かれたのか、リヒャルトはゲンオウの慨嘆を聞いたらしい。珍しく、同意するように首を縦に振っている。
「ひとりは寂しいね」
 アスカルは首をひねる。釈然としなかった。
 彼らの上と下では、漁師たちのいつも通りの口論、疲労の弱音を訴える声と、刷毛の擦れる音が響いている。やがてスバルの苛立ちが限界に達したのか、濡れた嫌な音と共に、藻の大きな塊が甲羅から抜かれた。幼なじみを狙ったらしいそれは、思い悩むアスカルの頭上を飛び越え、湖に落ちた。
 桟橋の周りをたゆたい終えた老亀の古い緑衣は、少しずつ、湖底へ沈んで行った。