日岡山公園Fan            日岡山展望台より

日岡山公園Fan
menu

戻る(最新版へ)

バックナンバー
第五回 日岡山古墳群A
第六回 城山
第七回 加古川線が走る街@
第六回:城山(じょやま)

 標高60mの日岡山展望台から北方の加古川左岸沿いに眼を移しますと、ここより少し高い85mの「城山」が窺えます。「しろやま」でも「じょうやま」でもなく「じょやま」と読みます。
 印南野(いなみの)台地西端に突き出た、一見独立した山のように見えます。江戸時代に著された『播磨鑑』には、「赤松則村の旧跡、西条ノ城山」とありますように、戦国時代には「のろし」などの中継地点、見張り台などの役目を持つ構居ではなかったかと思います。ただ、名付けられた時期はもう少し時代を遡らなければならないようです。
 周辺の古代については特別な記録は残されていないのですが、奈良時代の『播磨国風土記』では、神野(かんの)町北部から八幡町、稲美(いなみ)町中・北部地域に含まれる「望理(まがり)里」になるものの、里内には村名の記載はありません。「五十戸で一里」を考えますと、集落というまとまりの戸数ではなく広い地域に家が散在していました。台地がほとんどを占めていましたから、田畑に必要な水利が充分に行き渡らなかったのでしょう。
 中世になりますと、ほぼ同域が賀古(かこ)荘より分かれたとする「賀古新庄」になります。このころになりますと、台地の各地でも溜池の造成や開墾などで人口も増え、稲美町域は「蛸草(たこくさ)」と呼ばれています。荘域の中心は、やはり加古川沿いの、水利に恵まれた土地で人々は暮らしはじめました。時代と共に集落が広がっていったのでしょう、西側を「にしじょ」、東側を「ひがしじょ」と呼ばれるようになりました。
 今でもこの地域に古くから住んでいる人々の間では、山のあるところを「やまじょ」、寺の場所を「てらじょ」、集落を「むらじょ」なる言葉が使われています。やがて「にしじょ」は西条、「ひがしじょ」は東条の漢字に当てはめられ、いつしか読み方も変わったのです。たとえ「条」の字が付いていましても、決して条里制の地名ではありません。「西条」はのちに三つに分かれ現在に至っていますが、八幡町野村・下村・宗佐(そうさ)地域の「東条」は中世資料などには見えるものの、残念ながら消滅してしまいました。
 現在の八幡町中西条に「城山」が聳えています。かつて日常生活の中では目印など暮しには欠かすことのできない「西条の山」は、土地の名から生まれました。時代が流れていく中で省略されて「条山」となり、のちには「城」の字が当てはめられましたが、読み方だけは今も変わらずに残っているのです。
                                                        20101120 岡田 功(加古川史学会)


加古川の西側から見た城山(じょやま)
神野町西条にあり、周辺に史跡西条廃寺や国史跡西条古墳群が点在している。

城山(じょやま)から見た日岡山
山頂広場の愛宕神社付近からは東に視界が開け、六甲山系まで見える。