第五十八回:高架下の供養仏―加古川市加古川町溝之口― |
国道2号線の平野交差点から、北方へ延びる市道平野・神野(かんの)線の、西国街道(山陽道)より日岡神社までの道を「御陵道」と呼ばれています。もう人々の記憶から消えつつある名称ですが、神社本殿横の階段から展望台への途中には、明治時代はじめに制定された「稲日太郎媛(いなびのおおいらつめ)」の陵墓から名付けられたといいます。奈良時代の『播磨国風土記』に記されている景行天皇の皇后・印南別嬢(いなみのわきいらつめ)でもあります。
平野交差点を北上すると、15年ほど前に高架になったJR山陽本線を潜ります。東側の橋桁のそばに石造の仏さんの姿が見えます。いつも鉢植えや花などが仏さんを囲むように置かれているのを見て、お世話をしておられる人がある、というぐらいで、詳細は何も知りませんでした。
1984年に廃線になった国鉄高砂線跡の一部が宅地化されるのに伴い、2013年に遺跡があるかの確認調査が行われました。調査中に近所の古老も見学に来られたとき、供養仏についての詳細を話されたのです。
バスや自家用車が少ない終戦間もないころの話しです。戦争に駆り出されていた復員兵が郷里へ戻るため、すし詰め状態の車輌でした。ほかに移動手段がなく、デッキにも溢れんばかりの満員なので、一刻も早く帰るためには屋根まで占領する状況にありました。
本線の下りは、もうすぐ「加古川駅」の地点になります。トンネルや現在のような高架橋が少なく進んでいたのと、もうすぐ駅だ、との安心感から前方をよく見ていなかったのでしょうか、1913年開通の高砂線が跨いでいたので、屋根に陣を取っていた人は、陸橋に気付かないまま、頭や身体をぶっつけてしまったのでしょう。
転落した人を周辺の住民は救助に駆けつけました。ある一人が、落ちている帽子を見つけ拾うと、頭が出て来て脳みそが流れだしたと、すさまじい状況を話してくれました。屋根にいて陸橋にぶつけて亡くなる事故は何度もあったようです。出入り口付近でしがみついていて振り落とされた方もあったそうです。幸いにも怪我はなく、近所に住んでいたから歩いて帰った、とも教えて貰いました。
戦地から生きて戻って来たのに、前方を見ていなかったのか、ちょっとした気の緩みから命を落としてしまったのです。本人や家族は悔しかったに違いありません。だからこそ、本線と旧高砂線の交差付近で祀られていた供養仏は、高架になっても処分されず片隅へ置かれた、と説明されました。ただ、当時の状況が何も伝えられておらず、忘れ去られているようで残念でならないのです。まだ、お世話している方を見掛けていません。出会う機会が得られれば、新たな事実が分かるでしょう。
20170514 岡田 功(加古川史学会)
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高架下の供養仏 |