日岡山公園Fan            日岡山展望台より

日岡山公園Fan
menu

戻る(最新版へ)

バックナンバー

第四十七回 加古川宿界隈を歩くO
第四十八回 加古川宿界隈を歩くP
第四十九回 加古川宿界隈を歩くQ
第四十八回:加古川宿界隈を歩く P ―鳥尾小弥太父子の墓碑―

光念寺本堂前の無縁墓地に「南無阿弥陀仏」と刻む貴族院議員などを務めた鳥尾小弥太父子の墓碑があります。『加古郡誌』『加古川市誌』第一巻などには詳細な人物紹介をしておらず何も分かりませんでした。平成20年3月11日付の神戸新聞夕刊には萩博物館・高杉晋作資料室長の一坂太郎氏が「維新列伝」の中で「鳥尾小弥太と加古川」を掲載されました。
 小弥太は、1848年1月10日(旧暦の弘化4年12月5日)に長門国(山口県)萩城下の川島村で長州藩士・中村宇一右衛門の長男として生まれました。幼名は一之助、通称は鳳輔(ほうすけ)、号は得庵居士・不識道人などがあります。中村鳳輔とも呼ばれた小弥太は、安政5年(1858)父と一緒に江戸へ移り江川英龍に学びました。万延元年(1860)には萩藩へと戻り、家督を相続して高杉晋作率いる「騎兵隊」へ入りました。
 中村姓を鳥尾姓に変えています。乱暴ものなので親から勘当されというのは疑問が残りました。父親が亡くなったあとに変更しているからです。
 逸話の一つに、騎兵隊時代の皆が集まった夜の一室での話があります。「中村」では同姓が多く間違われる可能性が高いと耳にしました。系図に詳しい人物から、同族の中に「鳥尾」姓があると言われましたが勇ましすぎるから「小弥太」にしたのです。一夜の冗談では終わりませんでした。翌日には隊長へ提出する書類に「鳥尾小弥太」と悪戯での署名をしたのがきっかけで改名したようです。
 明治38年(1905)4月13日静岡県の別邸で58歳の生涯を閉じました。東京護国寺にも墓碑はありますが、二カ所になった経緯は安政6年(1859)に遡ります。6月には長州藩主世子(若殿)が江戸から萩へ帰りますが、同行したのは小弥太の父・中村宇一右衛門でした。道中でコレラにかかり、加古川の旅館「菊屋」では数日間の療養をしています。「江戸で13歳の子供(小弥太)を残してきたのが気懸り」と遺言を残して亡くなってしまいました。
 インドで起こりヨーロッパへ広がったコレラは、文政5年(1822)に長崎から入って来たとされています。死亡する確率は高く、安政5年だけでも8千余人、当時の瓦版では12万とも伝えているものの、実数は把握できていないといいます。
 明治17年(1884)維新の功績により子爵が授けられたある日、父の姿を追い求めて終焉の地となった宿泊地を訪ねています。最期を看取った旅館の老婦人が応対、小弥太を見て感慨深げに「まったくあなたのことでありましたか」と話したという。涙を流しながら聞いていた小弥太は、「自分が没したら父と同じ墓に葬るように……」と遺言しました。
 父子の墓は昭和40年代に墓地を整理したとき、無縁仏の中へ移されました。寺には小弥太の位牌などが保存されています。
                            20151010 岡田 功(加古川史学会)

鳥尾家之墓所

光念寺の無縁墓地