日岡山公園Fan            日岡山展望台より

日岡山公園Fan
menu

戻る(最新版へ)

バックナンバー

第四十六回 加古川宿界隈を歩くN
第四十七回 加古川宿界隈を歩くO
第四十八回 加古川宿界隈を歩くP
第四十七回:加古川宿界隈を歩く O ―豊沢団平A―

日岡神社の本殿へ向かう参道の右手の一画に、大鳥居神社と呼ばれる敷地があります。寺家町(じけまち)の居屋河原(いやがわら)から、昭和46年7月に移され祀られました。JR加古川駅から南方へと伸びる広い道路と、西国街道(旧山陽道)とが交差する北西角付近が跡地となります。詳細は【日岡神社の伝説】で触れています。
 どこのお社でもあるように、本殿や敷地の周りを玉垣で巡らせています。主だった箇所には、多額の寄付をした方がずらりと名前を連ねています。正面鳥居のすぐ右手で周囲より少し高くなった石碑に「〈大阪清水町〉加古仁兵衛」と刻まれているのが眼に届きました。近くには「明治廿四年」と彫ってあるのも伺えました。
 「加古仁兵衛」とは豊沢団平の本名です。生誕地の氏神さまですから、石碑に名前があっても不思議ではないように思われます。周囲より少し大きいうえ鳥居近くですから、多額の寄付をしたのではないでしょうか。ただ幼いときに寺家町を離れ大阪で暮らしています。
 何らかの記録があれば、と『加古川市誌』第一巻や『加古郡誌』などを探したが、神社の紹介はされているものの玉垣についての記載はありませんでした。ましてや団平との繋がりは一行も載せられていません。ほかにもないかと調べていく過程で、郷里の玉垣に寄付したのは単なる氏子だけではなく、大きな意味があったのではないかと考えました。
 父親の芸好きが原因で家業の醤油醸造が破産してしまい、一家は離散していたからです。団平は叔父の養子となります。12〜3歳のころだと思われますが、三味線の名人・三代目豊沢広助に入門します。めきめき上達したのは、父親の血筋を受け継いだからでしょうか。
 団平の名前が世に知られ渡るようになるにつれて、気がかりなことがあったかもしれません。兵庫県教育委員会編集の『郷土百人の先覚者』によれば、墓碑が所在する粟津の常徳寺が負債で困窮しているのを知り、加古川で浄瑠璃の興行をして返済をしたとあります。
 玉垣の明治24年といえば、72歳で亡くなる7年前になります。寄付の申し出はどちらからしたのかは分かりません。芸名「豊沢団平」ではなく、本名を用いています。寺家町が生誕地とはいえ、家族は離れ離れになっています。玉垣に刻む「加古仁兵衛」は、父親に代わり多方面へ借金をして多大な迷惑をかけた方へのお詫びの意味を含んでいたと考えられます。少しでも償いができれば、との気持ちから謝罪の一つとして神社へと寄付をしたのではないでしょうか。
                           20151020 岡田 功(加古川史学会)


日岡山公園内の大鳥居神社

加古仁兵衛の玉垣