日岡山公園Fan            日岡山展望台より

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第二十五回 天空への階段
第二十六回 海と川の境界線@
第二十七回 海と川の境界線A
第二十六回:海と川の境界線 @

 日岡山展望台から西方を眺めると、普段の加古川はゆったりと穏やかに流れているのが伺えます。いつもこのような光景ではありません。梅雨や秋雨の季節ともなれば黒い雲が上空を覆い、流域によっては短い間に集中して降り、水嵩は急激に増してときには川幅いっぱいになります。
 上流の山あいに降っても、山々の小さな峰々から寄せ集められ、大小の河川や水路を通じて加古川へと流れ込んできます。雨水だけでなく長い年月の中であるときは大量の、あるときは少しずつの山からの石ころは川の流れにさまよいながら、小さくなり海へと吐き出します。時代の流れの中で堆積して埋まって行き海岸線が南下するのに伴ない、加古川河口の位置も随分と変わって来ました。
 古くは水位が高く日岡山と対岸の升田山付近が河口とされ、海水はもう少し上流へと昇っていっていたかもしれません。左岸は印南野台地のすそ野、右岸は河岸段丘が海岸線とされていました。両山の南側は湾のような三角州が広がっていたです。湾内はすべて海ではなく、時代とともに上流より運ばれてくる土砂でところどころでは湿地帯や島々が浮んでいたと考えられます。
 奈良時代の『播磨国風土記』に記す内容は、【古(いにしえ)の港】などで述べているように東神吉町砂部(いさべ)付近に港が求められることから、現在のJR山陽本線付近が海岸線であり、河口が求められるでしょうか。直線ではなく、小さな水路が何本も走って入り組んでいたと考えられます。
 平安時代前期に成立とされる『住吉大社神代記』の「賀胡(古)郡阿閇(あえ)津浜一処」にも海岸線の様子が描かれています。「西限大湖尻」と記す史料があることでしょう。つまり、「大湖尻」とは湖ではなく、加古川河口が湾になっていたのを示しているのです。当時は上空から見られませんが、日岡山などの高いところから海を眺めると、南端がつながっているように窺えたのかも知れません。湾内はすべて海ではなく、ところどころに小島や湿地帯が多くを占めていたからです。
 中世に入ると、砂部や加古川宿の南方、加古川町稲屋周辺まで来ていたと思われるのは、
当時の稲屋は「大津村」と呼ばれていたからです。江戸時代には現在の形になりつつあります。水路の整備や海岸線を多くの人の手によって湿地帯の干拓が行われており、さらに南下しています。近代には、洪水の氾濫を防ぐ目的で土手などを築き流路も大きく変更させ現在へと至っています。
                              20120915 岡田 功(加古川史学会)



升田山から見た古代の海岸線と思われる所